おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新田花実が咲くものだ4

万年長十郎ですが、天和三年(1683)に畿内丹波・播磨・備中の代官となりました。この頃、原則として町人による新田開発(町人請負新田といいます)は禁止されていたのですが、元禄年間に大坂川口の新田開発を認めています。新田からの年貢増加による経済的利益を優先していたようです。万年の積極的な政策には当時の勘定奉行、荻原重秀の影響を見て取ることができます。

桜宮橋から大川(淀川)を臨む 中之島よりさらに上流部分にあたります

万年は新田開発・年貢増加という合理的・経済的な視点から大和川付け替えを検討し、荻原の指示で付け替え事業に取り組んだのではないかともいわれています。

付け替え不要を強調していた河村瑞賢は、元禄12年(1699)に工事を終えた後江戸に帰って間もなくこの世を去りました。同時期万年が大坂の堤奉行に着任(代官と兼任)しています。

いっぽう元禄十三年(1700)および翌年に大洪水が河内を襲いました。こうした出来事が重なって、付替えはやはり必要ではないかという方向に風向きが変わったようです。元禄十五年(1702)頃に洪水被害の検分に来た幕府の役人が、付け替えを検討していることを漏らしたようです。あきらめていた付け替えが実現するかもしれないと、流域の人たちは喜びました。地元の代表として中甚兵衛らが呼び出され、一挙に付け替えへと進んだようです。
この方針転換の主な理由は、経済的な問題であったと考えられています。

付け替え後の旧川筋に開かれる新田の開発権利を町人(商人)などに売却することで、3万7千両の収入が見込めることから、工事ではその3万7千両までを幕府が負担し、不足のほぼ同額は大名に費用負担をさせることで対応することとしました。

それにより幕府の工事費負担は不要とだけでなく、さらに新川によって潰れる土地の4倍の面積の新田からは、年貢が収入として見込めます。幕府が利益を得ることができると計算したわけです。

その新田開発の権利を買い取った一人が鴻池善右衛門でした。次回やっと鴻池新田の話に進みます。