宝永元年(1704)2月から大和川付け替え工事が始まりました。「公儀普請(こうぎぶしん)」といって幕府が工事費用を負担するのですが、前年から「手伝普請(てつだいぶしん)」として姫路藩主本多忠国(ほんだ ただくに)にほぼ半分を負担するよう命ぜられたのですが、この忠国が享年39という若さで工事開始直後の3月に急死してしまいます。
そのため、工事は一時中断されて姫路藩は普請の担当から外れます。姫路藩といえば15万石の大身ですが、その規模の普請を単独で負担させられる規模の藩が大坂周辺になく、明石・岸和田・三田(さんだ)の三藩が普請を命ぜられました。
結論として、幕府と三藩が個々の工事区間を受け持って競争するように進めたことで、当初3年かかるといわれていた付替え工事はわずか8ヶ月で完成します。
堺の海側から新たな流路を切り開いていきましたが、付替え地点の旧川側の堤防を切り崩して流れる方向を変え、旧川筋をふさぎ竣工したのが同じ年の10月13日のこと。
翌年の宝永二年(1705)から、旧大和川流域(旧川筋:久宝寺川・玉櫛川や新開池・
深野池)で新田開発が始まります。新開池周辺200町歩(200ha弱)にあたる広大な地域の開発権利を大和屋六兵衛・庄屋長兵衛両名が落札したのですが、鴻池善右衛門(三代目)が権利を譲り受け開発工事を行いました。三か年かかった工事中、日々善右衛門は駕籠で大坂の今池からここまで三里の道のりを進み、自らが工事の監督を行っていたと伝えられます。
この地に開かれた新田が、開発者の名を取って「鴻池新田」と呼ばれるようになりました。大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となっています。
現在は住宅地に変貌した「鴻池新田」ですが、次回はこの地に残る「会所」をご紹介します。