おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新田花実が咲くものだ6

鴻池新田駅から徒歩約5分の住宅地の真中に「鴻池新田会所」が遺されています。新田開発後間もない時期の宝永四年(1707)に完成し、当時のものがほぼ残されていることから、史跡・重要文化財に指定され、郷土資料館となっています。

鴻池新田会所 入口(門) 手前の堀に橋が架かっています

最初にお伝えしておきますと、現在鴻池新田会所は耐震・修復工事のため、令和五年(2023)4月から閉鎖・休館中で、建物内部の見学はできません。3カ年計画での修復らしく、再開は令和七年度となる予定だそうです。そのためここに掲載する写真も外観だけですので悪しからず。

鴻池新田は商人である鴻池家が資本を投下して開発されました。土着の農民が耕作の傍らに近くの荒れ地を開墾するというレベルでなく、開発に専念しているためその間はなんの収穫もありません。

橋の脇から水路と橋

また、田畑となる地が生まれてもまだ耕作者がいない状態です。植民地(言い方が悪いかもしれませんが)と同じでその地で農業に従事し、小作料(そのために資本投下している訳ですから)を払ってくれる小作人を募らないといけません。会所に遺された資料に宝永二年(1705)9月には耕地の整地が終了とともに、小作人に貸し与える家屋が建てられ、東村と西村が誕生しています。この時期、東村には16軒、西村には14軒が入植しました。

新田の農民には「村抱(むらかかえ)百姓」と「入作(いりさく)百姓」がありますが、入植者は前者で、河内・摂津・大和の天領内農村から請け人(保証人)を立て、出願により小作人になりました。保証人を立てていることから、身元の確かな者をこの地に迎えたということですね。ちなみに後者は他の場所に耕作地を持ちながら、この地に耕作にやってくる百姓のことをいいます。

会所横に建てられた石碑

「会所」とは新田の経営拠点となった建物ですが、ここの会所内の写真がありませんので、次回住之江公園にある「加賀屋新田会所」の写真を使ってご紹介していきます。