おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

アヤメとカキツバタ、いざ尋常に勝負菖蒲4

菖翁が59歳のころの話です。肥後熊本の藩主、細川斉護が彼の屋敷を訪れ、菖蒲を鑑賞し、その素晴らしさに感動し、分譲を依頼しました。しかし、「細川は金持ちであるから、花屋で買えばよかろう」という返事。斉護はやむなく江戸中の花屋を探し回らせましたが、菖翁の屋敷にあるような花には巡り合えませんでした。(そりゃそうだ、という感じですが)

これだけだと、心の狭い感じがしますが、斉護は使番を務めていた吉田潤之助という家臣を菖翁に弟子として入門させました。潤之助の花への真剣な情熱と、彼を選んで自分の下に遣わした細川公の熱意にほだされたのでしょうか、潤之助が熊本に戻ることになった際、餞別として自身の育てた五品種を譲りました。花好きは花好きの心を知る、といったところでしょうか。

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肥後系の品種 京舞小岩菖蒲園京舞は三英の花ですが・・

それ以降肥後熊本県で改良を重ねられ、現在に至るが「肥後系」の品種です。

江戸系が花びらの間に隙間がある三英咲きが多いのに対し、肥後系は草丈は低めで花は堂々たる大輪で、花弁が僅かに重なり合う六英咲きが多いのが特徴といえます。

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六英の肥後系品種 桃山の宴(小岩菖蒲園) あまり上手く撮れていません・・

菖蒲の品種の最後に紹介するのは「伊勢系」です。菖翁と同時期に、徳川紀州藩士の吉井定五郎が作り出したのが伊勢系の起こりといわれています。

伊勢菊、伊勢なでしこ、伊勢菖蒲を伊勢の三名花と呼ぶそうですが、前の二つを画像検索すると、想像する菊やなでしこと異なる、変形種であることがわかります。どうも、垂れた変形の頼りなげな咲き方が伊勢地方の好みなのでしょうか。

伊勢菖蒲は菊やなでしこほどではないものの、ちりめん状で深く垂れる三英咲きで、女性的で柔和な感じが特徴です。

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伊勢系品種 棚田の藤桜 垂れ咲きのイメージがわかりますか?

また、これら四品種を更ににかけ合わせ、多くの品種が生み出されているのですね。

首都圏の菖蒲の見頃はこれから二週くらい」の間でしょうか、今年も楽しみです。

アヤメとカキツバタ、いざ尋常に勝負菖蒲3

「菖翁」松平定朝が菖蒲を育てたのは、自身の屋敷のあった麻布桜田町でした。現在は元麻布三丁目、中国大使館のあたりです。そういう意味では、元麻布は菖蒲発展の地、といえるかも知れません。

彼は晩年に、自身の作り上げた品種の紹介や栽培方法をまとめた「花菖培養録(かしょうばいようろく)」を著します。この題名で検索すると、これもまた国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できます。

ページは記載されていないので、コマ番号33分の18から、自身の品種を絵で紹介しています。その数は、200ではなく21種類。気に入った自信作のみを紹介したのでしょうか。「雲の峯」から始まり、最後を飾る品種の絵が「宇宙」。

「宇宙」(おおぞら)が彼の最高の自信作で、「ああ、人力の造化に冥合するか遂に奇品出るにいたれり」と最高の誉め言葉で紹介されています。

残念ながら私の現在の菖蒲写真コレクションには「宇宙」をはじめ、「花菖培養録」に紹介された21種類の写真はありませんでした><

堀切菖蒲園で見られるという話も聞きますので、ぜひ写真に収めたいと思っています。

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千葉 佐倉城公園の菖蒲園 江戸系「猿踊」

しかし、この系列が「江戸系」と呼ばれ、群生させて楽しむ目的で改良されていることから、病気などにも強く、現在の各品種の基礎となっているようです。

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群生する花菖蒲(小岩菖蒲園

菖翁は晩年まで、菖蒲を門外不出としていましたが、最後には分譲を切望する人々を断り切れなかったのか、花を分け与えるようになりました。

一部の花は肥後藩士にも譲られ、肥後の地で新たな品種が発達しました。

次回は「肥後系」と「伊勢系」を紹介(写真あったかな・・)していきます。

アヤメとカキツバタ、いざ尋常に勝負菖蒲2

菖翁=松平定朝を検索すると、安永3年(1773)〜安政3年(1856)に生きた江戸幕府の旗本で、花菖蒲の育種家。と紹介されています。

安政元年が、日米和親条約締結の年ですから、江戸後期から幕末の入口くらいまでの八十余年を生きたわけですね。
様々な草花を栽培し、なかでも花菖蒲は60年もの間、改良に打ち込んだ、とも。
実際に 定朝が、生涯に生み出した花菖蒲の品種は200以上に上るとか。

今でこそ、花菖蒲の品種は5000とも言われています(東京花菖蒲会HPより)が、この時代に200の品種が増えた、というのはがどれほどのことなのでしょう。

花菖蒲の原種は「ノハナショウブ」およびその色変わりやそれらの交雑種くらいしかありませんでした。泰平の江戸時代になるまでは、ほんの十数種だったと思われます。

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原種にあたる野花菖蒲(小岩菖蒲園

17世紀後半の寛文~元禄年間には、大名や旗本の屋敷の庭園内で菖蒲が栽培された記録があり、ここで品種が増えました。駒込の植木屋、伊藤伊兵衛(三代目と四代目)がそれぞれ記した園芸書に、40種類ほどの品種が紹介されているようです。

この時期の花菖蒲の名残をとどめているのが、花菖蒲の系列の一つ、「長井古種」といわれる品種です。

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長井古種の一品種 舞小町

江戸時代の前期、菖翁が新たな品種を生み出すまでは、せいぜい五十くらいの品種だったと思われます。彼一人が生み出した200品種がいかに大きな数字かわかります。

菖蒲の話、続きます。

 

 

 

 

 

アヤメとカキツバタ、いざ尋常に勝負菖蒲

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。

前項、獄門とか処刑とか穏やかでないテーマの上に、墓石の写真ばかりで華がないお話でした。この項は、華やかにいきたいと思います。
首都圏もまもなく梅雨に入る時期ですが、梅雨空はともかく、この時期を彩る花といえば、花菖蒲と紫陽花。今回は花菖蒲をとりあげてご紹介したいと思います。

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皇居二ノ丸御殿庭園の菖蒲園

さて、五月の節句のあたり、スーパーの野菜売り場などで、菖蒲の葉が売られます。菖蒲湯に使うものですが、今回ご紹介する花菖蒲とは別物です。葉の形が似ていますが、菖蒲湯に入れるのは、「葉菖蒲」とも呼ばれ、サトイモ科の植物。一方の花菖蒲はアヤメ科の植物です。

アヤメと花菖蒲これに加えてカキツバタは、似ているようで違う植物です。その違いを長い間知らなかったのですが、2年前、小岩の菖蒲園に掲示されていたパネルに違いが書かれていました。

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菖蒲とアヤメとカキツバタ

アヤメは乾燥地に咲くんですね。また、花びらの根元、つまり中心部周辺に網目の模様があるのが特長です。アヤメ=綾目が語源だという説もあります。

さておき、この項は「花菖蒲」を取り上げるのですが、四月の染井吉野の項で、駒込が江戸時代の園芸の里で伊藤伊兵衛という人物を紹介しました。花菖蒲も江戸時代にさざざまな品種改良が行われています。

花菖蒲にも伊兵衛のような改良に取り組んだ人物がいたのだろうか?と思って調べたところ、いました!!一時的に赴任した京都においては京都西奉行も務めた旗本です。

次回は、花菖蒲の品種の紹介と、「菖翁」こと松平定朝について話します。

 

 

小柄な鼠が金盗って誅 余談

さて、この項では小塚原回向院に葬られる受刑者を何人か紹介していきましたが、

安政の大獄で処刑された吉田松陰・橋本佐内・頼三樹三郎の墓や、桜田門外の変の首謀者の一人、関鉄之助の墓などもあるのですが、これらの話や解体新書にまつわる話は、また別の機会に取り上げたいと思います。

江戸時代から明治の初期までの間、ここでの刑の執行は約20万人に上るらいいのですが、寛保元年(1741)には首切地蔵が建てられ、現在も残されています。

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小塚原回向院の首切地蔵

また、時代は下りますが、昭和初期の二・二六事件の首謀者の一人、磯辺浅一一等主計(大尉と紹介されることが多い)の墓もここにありました。

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磯辺浅一の墓(奥さんも一緒に眠っています)

変わったところでは、プロレスの神様

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カール・ゴッチのお墓もここにあるのでした

亡くなってから十数年のためか、ピカピカに磨き上げられた墓石が印象的でした。

小塚原のお話はここまで。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

小柄な鼠が金盗って誅9

鼠小僧が庶民に人気があったのは、一つには、盗みに入ったのが武家屋敷(主に大名屋敷)だけだったこと、また徒党を組んで押し入ることなく殺生もしなかった、という点が挙げられます。これについては、本人に言わせると、大名屋敷は敷地が広大で部屋数も多いわりに、主に男性が仕事をする表向きに比べ。女性が中心の奥向きは警備が手薄で、発見されても逃げやすかったことが理由のようです。裕福な商家はそれなりに奉公人が多く、用心もしっかりしていましたので。更には武家屋敷では被害が出ても、公にするとお家のメンツが丸つぶれ、ということで、届を出さずにすませる、というメリットもありました。決して権力に反抗する意図などはなかったようです。

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両国回向院 鼠小僧のお墓 前回より近づいた写真です

また、盗んだお金を貧しい人々に分け与えた、というのも、彼の普段の生活が実に質素なものだったからですが、真実ではなく、実際には賭博・遊興で使い果たしたというのが定説になっています。ただ、捕まる直前(予感があったのでしょうか)に妻や妾達に離縁を申し渡し、誰も連座させずに一人で刑場の露と消えた、、というのも人気の一因といえるでしょう。

鼠小僧のお墓は、長年捕まらなかった彼にあやかりたい人が、墓石を削り取って金運のお守りにしてしまうため、お墓の前に「お前立ち」を置き、そちらを削るよう案内されています。しかし、長らく捕まらなかったとはいえ、結局は捕縛され極刑に処され、盗んだお金も博打ですってしまっているわけですから、本当にご利益があるのかどうか・・・

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両国回向院 猫塚

鼠小僧のお墓の隣には、猫塚があり、鼠と猫が対比されています。

こちらの猫も、商家から2両を盗んで可愛がってくれていた魚屋(病気で体を壊し、生活に困っていた)に恩返しをした猫が祀られたものです。

鼠小僧の下り、以上で終わりですが、回向院の余談について次回触れさせていただきます。

 

小柄な鼠が金盗って誅8

鼠小僧が2度目に捕縛されたのが、天保3年(1832)5月のことでした。前回の自白内容は、その時の尋問の際のものです。この自白内容が、「鼠賊白状記」として残されています。この題名で検索すると、なんと国立公文書館デジタルアーカイブがヒットします。明治8年内務省による写本ですが、なんとネット上で閲覧できます!

「五月十日牢屋敷へ 異名鼠小僧事 無宿入墨 次郎吉」から始まり、本人の生い立ちや、何時どこそこのお屋敷に忍び込んでいくら盗んだというような内容がひとつひとつ記されています。よく考えれば、尋問調書なので当然ですが・・

約70ページに渡る調書は以下の言葉で締めくくられています。「引廻シノ上獄門申付」・・

刑に処せられたのが、同年8月19日のこと。

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両国回向院にある鼠小僧の墓

引廻しされた鼠小僧を一目見ようと、市中の野次馬大勢押し寄せたといいます。身長五尺(151から152センチ)に満たないものの、美しい着物を着せ、薄化粧をしたいで立ちだったそうです。もっとも、外見がみすぼらしいと、ご政道への反感を買いかねないためわざとそのようにしたのが理由のようですが。

両国駅から南に150メートルほど南に行った回向院(小塚原にあるのが別院にあたるようです)にも鼠小僧のお墓があるのですが、こちらは明治時代に建てられた供養塔に当たるものだそうです。

庶民に人気の鼠小僧ですが、そのお話は次回で。