おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

わたし松葉、いつまでも松葉2

また、「松」というと「松竹梅」としておめでたいものの代名詞的に使われます。中国において、冬でも青々として色褪せない松と竹、また寒中に花を開く梅を「歳寒三友」として尊んだのが起源とされています。その姿が「清廉潔白」や「節操」といった中国の文人の理想を現していると考えられ、水墨画の題材として好まれたようです。
この3つの組合せは平安時代からすでに日本に伝わっていますが、当初はこの組み合わせ自体には「おめでたいもの」という意味合いはありませんでした。

時代ごとにそれぞれが縁起の良いものとされるようになり、セットになってもてはやされるようになったようです。

まず、「松」は平安時代から「不老長寿」や「神様の依り代」として平安時代から縁起物とされてきました。

松のある風景① 旧古河庭園(北区西ヶ原)

理由は前回述べたように冬でも青々としていることから。

次は「竹」の番です。成長が早く、まっすぐに伸びる竹は「生命力」「成長力」を、広く根を張る姿が「子孫繁栄」の象徴として室町時代からもてはやされました。この時代に茶道・華道が流行し、庭園に竹が植えられるようになります。

竹のある風景 市川市「八幡の藪知らず」

最後の「梅」ですが、昨年2-3月に「春は梅見ごこち」の項などでご紹介したように、万葉集に詠まれた花の中で2番目に多いのが「梅」ですが、貴族階級でもてはやされていたものの、庶民には浸透しているとはいえませんでした。梅干しは平安時代からあったものの、戦国時代に武士階級に保存食として広まりました。

梅のある風景 京都御所

庶民にまで「梅」文化?が拡がったのは江戸時代のこと。和歌山県田辺などで米の取れない痩せた土地に梅を栽培することが奨励されました。これにより庶民にまで「梅干し」が広まり、厳しい冬に花を咲かせ、身体によい実をつける「梅」が「健康」「長寿」の象徴として縁起物になったのでした。

こうして「歳寒三友」の3つが「松竹梅」のセットとなり、更にはお寿司屋さんが、元々「特上」「上」「並」としていたものを「松」「竹」「梅」と置き換えたことでさらに一般的になりました。「並ください」とは中々言いづらいところを、「松竹梅」とすることによって頼みやすく、言葉の響きも美しいことから大きく(鰻や蕎麦などにも)広まったようです。

以上、「松竹梅:の起りでしたが、松の話が続きます。

わたし松葉、いつまでも松葉

ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。

十日ほど前の話で恐縮ですが、17日に新宿末廣亭の正月二之席に行きました。二之席は2020年以来の拝見となり、その時はコロナが流行する前で、伊勢丹で買ったお弁当を食べながら観覧できたのですが、今は感染防止のため、館内飲食禁止(ペットボトルで飲むレベルは可)となっているのがちょっと残念。(5類になったらこのあたりも緩和されるのでしょうか)
正月の寄席は、演者も御目出度い演目を演じるので、見る方もお目出度がアップし、松の内を過ぎても改めて正月気分にひたれます。

末廣亭の演者一覧 真ん中あたりに演目「松づくし」の字も

末廣亭の演者一覧 真ん中あたりに演目「松づくし」の字も

さて、正月の席で恒例となっている演し物が、三遊亭歌留多師匠の「松づくし」。女性初の真打として知られる師匠ですが、話芸としての落語のみならず、寄席の踊りなども得意とされる中で、この時期は「松づくし」も演じておられます。簡単に説明すると、松を描いた扇子と、同じく松の描かれた箱の踏み台を使っての曲芸的な踊り、といえばよいでしょうか。3年前にも拝見しましたが、着物姿で三段に重ねた踏み台の上で片足でポーズを決める、というのは中々格好いいものです。(館内写真撮影も不可なので、写真でお見せできないのが残念です)調べると歌留多師匠は御年60歳、いつまでもお元気でこの演目を続けていただきたいものです。
前置きが長くなりましたが、今回は正月らしく「松」をテーマに色々とご紹介していきたいと思います。

松の盆栽 明治神宮にて

東アジア圏においては、常緑樹で冬でも青い葉をつける松は不老長寿の象徴とされています。それだけでなく、魔除けや神が降りてくる樹としても珍重されており、「マツ」の語源は神を「待つ」「祀る」が語源とされる説が有力なものの一つとされています。

正月に飾る「門松」はぱっと見たところ、中央の3本の竹が目に入りますが、周囲には松葉が配されています。元々は名前の通り「松」を年神さまをお迎えする「依り代」(よりしろ)として門前に松を飾ったのが始まりだそうです。

次回も縁起の良い「松」の話を続けます。

腹を召しませ 召しませ腹を3

岡崎藩水野家(9名をお預かり)や、伊予藩松平家(同10名)でもほぼ同じ流れで切腹は行われました。他藩より厳重な警備をしていたのが松平家で、鉄砲を持った足軽を待機させて、切腹者が脇差を持って暴れたりした場合に備えています。現在であれば万一の事を考えてのリスク管理として褒められるかもしれませんが、当時の浪士たちに向けられた心情などを踏まえると、好意の目では見られてはいません。
また、大石内蔵助の長子主税はこの松平家切腹していますが、介錯人を務めた波賀清太夫は、主税が脇差を腹に当てる 前に首を落としたばかりか、左手で落した首の髻(たぶさ:髪を結いあげた部分)を掴んで首を持ち上げ、目付に見せる、など、切腹者に対しての礼を失したともいえる扱いをしたことが記録に残されています。

さて、話は細川家での切腹の場に戻ります。前にご紹介した旧細川邸の切腹の場、扉のガラスから中を覗くことができます。

大石らの切腹の場 岩などが散らばっていますが・・・

藩主細川綱利は、幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」と断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて、客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれます。

このように赤穂浪士に対して好意を見せた綱利ですが、宝永三年(1706年)、嫡男吉利が家督を継ぐ前に十代で早世すると他の息子たちも後継を残すことができず、綱利の血脈は断絶してしまいます。その後、細川家内でも赤穂浪士への評価が変化し、赤穂浪士の遺髪を頂いて建立した墓や供養施設が悉く破却されました。

切腹跡地も、墓の台座部分(四角い芝台石)と供養塔の残滓(角が丸くなり刻銘が消滅した石)と思われる石の集まりが残るのみです。綱利への評価も、彼のせいで藩財政は破綻寸前となった、旨の記録が残され、ずいぶんな酷評となっています。

さて、浪士たちは切腹泉岳寺に葬られました。

泉岳寺四十七士墓 右奥の屋根のある墓が大石内蔵助
更に右にあるのが浅野内匠頭の墓

4つの藩に別々に預けられましたが、同じ日に切腹した浪士たちはここ泉岳寺に一同に葬られました。その墓前にお線香の煙の堪える日は無いようです。

以上で赤穂事件についての項は終わりです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

腹を召しませ 召しませ腹を2

10名の赤穂浪士を預かった長府毛利藩での話を紹介します。毛利藩というと、幕末の長州藩(36万9千石)が思い浮かびますが、こちらは支藩(5万石)にあたります。下の地図(「大江戸今昔巡り」より)では地図の一番下側に「長門府中藩 毛利左京亮」とあります。一方地図の上側に「松平大膳(毛利)」とあるのが長州藩邸。

江戸時代末期の地図では六本木駅の南北に長州藩長府藩藩邸がありました
池のある辺りが現在の毛利庭園と一致します

第3代藩主毛利綱元は、倹約を主とした「天和御法度」を制定し窮民の救済に尽くし、また文芸・和歌をよくした殿様だったようです。

さて、切腹にあたって長府藩では、「扇子腹」として扇子を十本用意させました。本来であれば短刀を用意し、腹に当てたところで介錯人が首を落とす、というのを短刀の替りに扇子を使うものです。しかし、幕府の目付から「それでは打ち首と大差がない」との指摘を受けてしまいます。武士の名誉の死として切腹を命じたのに、それでは罪人の斬首のようではないか、と「小脇差を出すようにというお指図」を受けました。

報道ステーションなどで中継のある「毛利庭園」は長府藩の庭園。
一切の供養塔や顕彰碑の類は存在せず、義士切腹地の場所は「不明」です。

切腹にかかった時間はというと、細川家と同じく一人約3-4分だったようですが、間新六(はざま しんろく)の時、彼は白裃と小袖の上衣を肌脱ぎせず、脇差を腹に突き立て、そのまま横一文字に腹を切りました。筋書き(そのものはないものの、不文律として)にない「本当の切腹」です。介錯人の江良清吉はそれに驚きながらも急ぎ首を落とすと、検視役の斎藤治左衛門らは駆け寄り「見事」と褒め称したと伝わります。

義士切腹後に、藩主綱元は「首尾よく仕舞ひ、大慶仕り候」と慶びの言葉を述べていますが、浪士たちへの誉め言葉というよりも、「あーやっと終わった、よかったよかった」というように聞こえます。というのも、綱元は浪士を収容していた小屋を破却するだけでなく、切腹跡地を清めるよう命じています。「藩邸内のどこで切腹が行われたかわからないようにせよ」との指示でした。

なお、綱元の祖父秀元と父光広の菩提寺は偶然にも泉岳寺でした。しかし綱元本人は江戸で没したにもかかわらず遺体を国元に送り、赤穂浪士と同じ泉岳寺に葬られるのを嫌い、最終的に長府藩泉岳寺は絶縁するにまで至ります。絶縁の原因まではわかりませんが、綱元がこの討入り行為や浪士たちを快く思っていないことは、これらのことから容易に想像がつきます。

次回、赤穂事件のエピソードをまとめます。

腹を召しませ 召しませ腹を

細川家で赤穂浪士達の世話役を命じられたうちの一人(接伴役は19名)堀内伝右衛門(ほりうち でんえもん)は、その役にあった三か月弱の間、同じ侍の一人として浪士たちの行動に感動し、単なる仕事でなく積極的に彼らに接し、会話したことを「堀内伝衛門覚書」として記録し、それが現在に伝わっています。

2月4日、切腹の処分が決定し、それらが御預け先の4藩に通知されたのは午前10時ごろと伝わっています。その後、細川家に対しては検使目付荒木十郎左衛門と御使番の久永内記が遣わされましたが、その到着が午後2時頃。

細川藩邸で切腹した17名

藩邸の上の間に集められた17名の浪士たちに、切腹の処分を伝えた後、もう一つ荒木十郎佐衛門が伝えたことがありました。吉良家の当主である吉良義周(きら よしちか/よしまさ とも)に対して、改易と諏訪高島藩へお預けの処分が下ったのです。討入りの際に取った行動が「不埒・不届き」であったという理由です。

吉良家にも同様に処罰が下されたことを聞いた大石が、「落涙の体にて、段々さてさて有り難きことと申され」た、と記されています。

上の間の前庭に畳3枚を敷き、その上に木綿の大風呂敷を敷いて切腹の場所としました。正面にあたる上の間に荒木と松永の上使が座り、正面以外の三方には白幕が張られます。午後四時頃、最初に名前が呼ばれたのが大石内蔵助で、場に向かう大石に、潮田又之丞(上の写真で左から6人目に名前があります)が、大石内蔵助に「皆、追っつけ参ります」と声をかけました。

畳に座した大石の前に小脇差を載せた三方が置かれ、小脇差をとって腹にあてるところで、背後にいた介錯人の御徒頭安場一平が首を打ち落としました。細川藩では浪士1名に対し、それぞれ別の介錯人が任じられています。17人の切腹が終わったのは午後5時過ぎ頃といいますから、一人約3-4分くらい、淡々、整然と切腹が進んだようです。

他の3藩においてもそのような早さで切腹が行われていたようです。

次回は他藩での様子や切腹後のエピソードについてご紹介します。

 

 

てんで腹々

2ヶ月弱お預けとなった赤穂浪士たち、最初の頃は預け先毎に扱いが異っていましたが、藩同士で情報を交換し合ったか、あるいは世評を気にしたか、年明けくらいからは細川家以外の藩でも浪士たちへの扱いは良くなったようです。

細川家では厚遇が続き、浪士から「我ら浪人してから軽い物ばかり食べておりましたが、当家に参ってからは結構な御料理ゆえ、腹にもたれてなりません。唯今は麦飯に塩いわしが恋しくなりました。何卒御料理を、軽い物にお願いしたい」という申入れまであったとか。
さて、幕府より切腹の処分が下ったことが伝えられると、浪士たちは涙したと伝えられています。切腹も斬首も命を落とすことには違いありませんが、斬首は罪人として処刑されるのに対して、切腹は武士として責任を取るための名誉の死と考えられています。そのため、浪士たちの涙は、罪人の扱いではなく武士として死ねることへの慶びのあらわれであったと考えられているようです。
切腹は2月4日のうちにそれぞれのお預け先で執り行われました。4藩に分かれているので、46人が一同に介したりすることはありませんでした。大石内蔵助と息子の主税も肥後細川家と伊予松平家とお預け先が別々でしたので、ドラマにあるような親子の別れの会話、などというものはあり得ないシーンです。。
細川家では3枚、他家では2枚の畳を庭先に敷いて切腹の場所としており、これは切腹の格式として最高の扱いがなされたものでした
大石ら17名が切腹した細川家下屋敷跡には、現在も切腹の場所が残されています。

細川藩邸跡に残る、大石内蔵助切腹の地

切腹場所に掲示された案内板

塀で囲まれ、普段は鉄の扉で閉ざされていますが、史跡として整備され、討入の日などに公開されているようです。訪れた日は公開日ではなかったため、扉の窓から中を拝見。大石らが切腹したとされる場所には石が置かれており、義士の最期の場所が分かっているのは細川邸だけだといいます。(松山藩邸跡や毛利庭園などは残っているものの切腹の場所が明確に残るのはここだけです)
細川家は浪士たちを厚遇していただけあって、切腹の際の記録も他藩より詳しく残っています。それについては次回に。

ちゃんちゃん腹々

江戸の庶民は、赤穂浪士の討入りを「忠義の行動」として称賛しており、好意的な目で見ていたようですが、幕府にとっては徒党を組んで旗本の屋敷に押し入り、元当主(養嗣子に家督を譲って隠居)を殺傷するという、ある意味極悪人です。そのため、その処分をどうするか、について幕閣においても様々な議論が行われました。

将軍綱吉の下で大学頭となり、文治政治の推進に努めた林鳳岡(はやし ほうこう)は、大石達元赤穂藩士たちが主君浅野内匠頭の讐を討つ行為は儒教の道義「忠」にかなうものとして、彼らを「義士」として称賛します。一方で法を犯した犯罪者であることから、処罰することはやむを得ない、との論調に立ちました。また、事件当時金沢藩前田家に仕えていた儒者、室鳩巣(むろ きゅうそう)も、「赤穂義人録」を著して浪士たちを賛美しています。

幕府においても、赤穂浪士の処分について議論が交わされました

一方、同じ儒学者でも佐藤直方(さとう なおかた)は、「浅野内匠頭による吉良への刃傷事件も喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎない」とし、大石らの行為も「幕府を顧みない愚挙に踏み切った逆臣」であるとして批判しています。荻生徂徠(おぎゅう そらい)も、内匠頭は幕府によって処罰され死を賜ったのであり、吉良が内匠頭を殺したわけではないから、「仇討ち」とはいえず、主君の「不義の行為」を引き継いだだけに過ぎないから「義」として認められるものではない、としました。これらは浪士の行為を批判する立場ですが、どちらかというと少数派です。

幕閣においてもそうした議論がされた結果、元禄十六年(1703)2月4日)、大石らを切腹にする事を決めました。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたから、というのが理由でした。大石ら浪士たちは「主人の仇を報じる」と主張する一方、幕府としては討入りの行為は「徒党」であり仇討ちとは認めない、という立場をとった訳です。
この判決(?)に先立ち、将軍綱吉は1月20日過ぎに「切腹申しつけよ」と断を下しているようです。湯島聖堂をおこし、自ら忠孝を説いた綱吉ですから、討入りの行為に対して、「忠義」であると賞する立場である一方、天下の大法を破ったことを断罪せざるをえず、民意か法律かで悩んだ末、の判断であったようです。
次回、浪士たちの切腹の場面です。