おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

肥後の庇護2

細川綱利は、浅野内匠頭が数え年9歳で赤穂藩主となったときにその後見となっていた縁もあり、その仇を討った浪士たちを英雄を見るような感情だったのでしょうか。

肥後細川藩下屋敷泉岳寺のそば、白金のあたりにありました

当時の庶民も、細川家が浪士たちを厚遇したことを称賛し、当時の狂歌「細川の 水の流れは清けれど ただ大海の沖ぞ濁れる」が今に伝わります。

白金の細川邸跡に残るシイの古樹

シイの木の案内板

「清い」と褒められているのが、細川家と水野家、「濁れる」と貶されたのが、大海(たいかい=毛利甲斐守)と「沖」(松平隠岐)を指すようです。

ただ、狂歌の中では、細川家と並べ褒められた岡崎藩主水野 忠之ですが、浪士たちを厚遇した記録はなく、浪士たちとの会見も藩邸到着後数日が経った21日のことでした。(翌年正月12日にも会見した記録あり)

その時に彼らを褒めたとの記録もありません。使っていない藩邸の長屋に入れ、外から戸障子などを釘付けにしたりしています。「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」とあり、更に二重の囲いを設け、藩士に昼夜問わず長屋の内外を巡回させ、まさに罪人に対する扱いそのもの。「寒気強く候にて火鉢これを出さず」つまり、浪士たちが寒そうにしていても火鉢を与えることもなく、布団を増やせとの要求にも「臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」と要求を却下して冷遇した記録が残っています。 酒も出さず、お預かりから暫くは体も洗わせなかった、というので、賓客を遇するような細川家とは随分な差です。
長府藩主毛利甲斐守綱元は12月29日、伊予松山藩主松平隠岐守定直にいたっては、預かりの当月でなく翌年正月5日に会見した記録があります。藩主に会うまでの期間が経過しているところが浪士たちとの距離を感じられる気がします。
細川家を除く3藩の浪士たちへの扱いは、幕府からの命をそのまま実行したもので、水野家も毛利・松平家とそれほど待遇は異なってはいなかったようです。が、松平隠岐守定直は正月5日に細「川」と「水」野をセットにして他の2家と差をつけると、狂歌を読むにあたって座りが良かった、ということではないでしょうか。その意味で、水野家はちょっと得をしたかも知れませんね。

さて、4家に浪士たちを預けている間、幕府では彼らへの処分を検討、さまざまに意見が交わされますが、それについては次回に。

 
 

肥後の庇護

一行は虎ノ門にあった仙石伯耆守の屋敷まで護送され、事情聴取を受けた後、各藩に移動しています。引渡先の藩ごとに浪士たちを分け、細川、松平、毛利、水野の順に引き渡されました。泉岳寺の浪士の墓も、その際に預けられた藩ごとに並べられ葬られています。

泉岳寺赤穂浪士墓石配置 大石ら細川藩組は右上に

細川家には、大石内蔵助以下17名が白金にあった下屋敷に預けられました。大石の長男、主税は伊予松平藩へのお預けなので、ここで親子はお別れ。下屋敷泉岳寺からだとそう遠くない距離なのですが、虎ノ門仙石邸からの移動であったうえに、しかも細川家は875名もの警護役をつけていました。他の藩でも120名(水野家)、229名(毛利家)、286名(松平家)という物々しい動員をしています。これは吉良の息子の米沢上杉藩が浪士たちを襲撃するのを怖れ、厳重な警備を行ったためでしょう。
大石たち細川藩組は午後十時頃に虎ノ門仙石邸を出発し、下屋敷着いたのは午前二時頃でした。四時間もかかる距離ではないのですが、17名の中に負傷者(太ももに怪我をした近松勘六のことでしょうか)がいたため、傷に触らぬようゆっくりと進んだためのようです。

こんな時間にも関わらず、藩主細川綱利は起きて浪士たちを待っていました。義士たちを一目見たいと到着を待ちわびていたようです。そのまま面会した際に、討入の儀について神妙である、と称え、二汁五菜の料理、菓子、茶を出すように命じてもいます。

日が代わって16日、浪士たちは御使者の間に通されますが、これは相当な厚遇です。

綱利は義士達にすっかり感銘をうけ、幕府に助命を嘆願し、助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召し抱えたい旨の希望まで出すほどでした。また12月18日と12月24日の2度にわたって、自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が成就するよう彼らを預かる間は精進料理しかとらなかったといいます。

藩主本人が赤穂浪士の熱狂的ファンだったわけですね。

これに対し、他の藩での扱いはというと・・それは次号で。

吉良 KILLER TEAM5

見物人を下がらせて、泉岳寺門内に入った浪士たちですが、大石は「御仏前に槍の先を向けるわけにはいかない、と皆に指示を下し、それより先に主君の墓に直接向かったといいます。墓参の後には本堂に上がっていることから、寺僧たちが先に本堂に上がるよう勧めたのに対して、主君の墓前に首を供えるのが先、と考えたのかも知れません。

泉岳寺に残る「首洗いの井戸」

全員で墓参し、吉良の首を手向けた後、和尚にお目にかかりたいと本堂客殿に集まりました。和尚が浪士たちと対面して「この度の吉良邸討入りはさぞ本望でありましたでしょう」と尋ねたところ、「仰せの通り、日ごろの本望、これに過ぎるものはございません。お寺に参りお世話になります」と大石は応じています。

浪士たちは内匠頭の墓前に首を供えました

この後、浪士たちが「大変疲れたので、温かい粥をいただければ」というので、寺では粥を振舞いました。(酒も振舞った、という記録もありますが・・)

さて、吉良邸から泉岳寺に向かう途中で、大石は吉田忠左衛門富森助右衛門の二人を大目付仙石久尚(せんごく ひさなお 伯耆守)の元へ吉良邸討入りの報告をさせています。仙石家と赤穂浅野家が遠縁の親戚であったのが理由とされているようです。久尚は二人の話を家老に書き留めさえ、その内容を月番老中の稲葉正往(いなば まさみち 丹後守)に報告後、登城し幕閣にも討入りの次第を伝えています。

江戸城内での老中評議の結果、浪士たちの身は4つの藩に分けてお預けの身とする、と決められました。肥後細川家、伊予松山松平家長門長府毛利家、三河岡崎藩水野家の4藩がそれにあたります。

そのことが決められた後、久尚は部下3人を泉岳寺へ派遣し、浪士全員を一旦仙石邸へ移送するよう指示し、仙石邸で取調べを行った後、それぞれ浪士の預かり先を告げ、先の4藩に引渡しました。浪士たちはそれぞれ引き渡された藩により、その取扱いはずいぶん異なっていて、後にそれによって色入りと評判をたてられることになるのですが、その話は次回に。

 

 

 

吉良 KILLER TEAM4

四十七士を出迎えた泉岳寺の記録によると、この時の様子は以下のようなものでした。

この日泉岳寺の僧快舟が門の近くまで行き外を見たところ、見馴れぬ装束をし抜身の槍(原文では「鎗」)を持った3人がやってくるのが見えました。出家の僧らは「これは何をしてきた人達か!」と不審に思って見ているうちに3人は近づいてきます。

泉岳寺中門 山門はこの先にあります

槍に何やら結び付けて2人で運んできました。後で聞いたところによると、槍に結ばれていたのは吉良上野介の首で、運んでいたのは間兄弟(間重次郎、新六郎)でした。

槍に結び付けられた首を運んできます

最初に中門にやって来た3人(間兄弟と岡野金右衛門)に対して、快舟ら出家の僧らは、「あなた方はどちらから来られたお方ですか?見たこともないご様子で、簡単には門を開けて中に入れることなどできません。」と応じています。3人が返答することには、「私たちは、浅野内匠頭の家来で、亡き主君の意趣を継いで、吉良上野介殿の首を討取ってこの泉岳寺に寺まで参ったものでございます。ご心配されるような者ではございません。」

それを聞き、「もっともな御忠義である」「和尚様にお伝えしよう」と僧2人が本堂に報告に向かいます。そうこうしているうち、だんだん後から46人が次々と境内に来られました。その時、門前の町では大勢の見物人が浪士の後に付きまとい、表門近くまでやって来たので、46人衆より見物人の方が大勢となって騒がしくなります。

「牛町の門を閉じるように」と言いつけますが、大勢が押入りそうになりどうすることも出来ません。侍衆13人ほどが振り返って槍を向けると、見物人はどつと後ずさりしたので、やっと門を閉めたることができました。

最初はものものしく怖がっていた僧侶たちが、事情が分かって浪士たちを迎える心情になっていったこと、当時もやはり野次馬が後ろからついてきていたことがわかります。

泉岳寺内に入った浪士たち、続きは次回に。

江戸を(つっ)きる

吉良の首を挙げた浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に首を供えるため、墓のある泉岳寺へと向かいます。今だと吉良邸の最寄駅、両国の隣駅「浅草橋」から「泉岳寺」は都営浅草線で17分(8.3km)で結んでいますが、当然浪士たち行列をなして徒歩で向かいます。今の時間でいうとおそらく午前六時頃。

古地図アプリ「大江戸今昔巡り」は幕末の地図データを用いているので、吉良邸の表示はありませんが、正門や本所松坂公園のあたりは「松平越前守家来 本多内蔵助邸」となっています。後に住むのが大石と同じ「内蔵助」とはなんとも不思議な縁です。

幕末の吉良邸周辺 画面中央右の赤い〇が吉良邸正門です
また当時の両国橋は、今より約50m南にありました(回向院の西の黒っぽい橋)

事前の申し合わせでは、無縁寺(回向院)にいったん引き払って集合する、無縁時に入れない場合は両国橋東の橋際の広場に集まることとする、としていました。

回向院境内 鼠小僧の墓もあります

回向院で一行は休息を申し出ますが、回向院の門は閉ざされています。回向院の僧侶は暮れ六つ以後明け六つ以前は誰も寺内に入れない決まりとなっている、と断りました。

明け六つというのは、今の定時法と異なり、空が白んで薄明が始まった時期をいいます。十二月の夜明けは遅く、まだその時間に達していなかったのかも知れませんが、それよりも謎の武装集団とのかかわりを恐れて断った、というのが本当のところではないでしょうか。一行は回向院に開門を拒絶された後、両国橋東詰で休息しながら上杉家からの討手を迎え撃つ準備をしました。大石は吉良邸に押し入った後、必ず江戸城桜田門そばの上杉邸から討手が向かってくるものと考えていました。

実際に吉良の実子である藩主上杉綱憲は、討ち入りの情報を受けるとすぐに救援を出そうとします。しかし兵を揃えたり情報を収集するのに手間取る間に、幕府老中から高家畠山下総守義寧(よしやす)を通じて出兵差止め命令が出されたため、派兵を取りやめています。
そんなこととは知らない大石は、正面からの上杉家、後方から津軽家の追手を警戒、両国橋は渡らず南下して永代橋を通過、築地では織田家下屋敷を避け、軽子橋を渡り築地川の対岸を通っっていきます。鉄砲洲にてあった赤穂藩邸に向かおうとしましたが、奥平家と小浜酒井家の尋問に遭い藩邸跡には近づけません

引き上げの際の隊列

先に進んだ愛宕下でも伊達家に中屋敷通行を阻まれたことから、迂回して金杉橋(浜松町駅の南西)を通行、札ノ辻(田町駅西側)を経て泉岳寺に到着しました。到着は午前八時ごろだったとされています。

泉岳寺での一行の行動については次回に。

吉良 KILLER TEAM2

表門、裏門から邸内に入り込んだ四十七士は、かねてから入手していた図面を元に吉良上野介の寝間に向かいますが、吉良は既に逃げ出していました。茅野和助が吉良の布団に手を入れ、まだ温かみが残っていたことから、まだ寝間を出たばかりだと判断、四十七士はまだ遠くには逃げられぬはずと周囲を探し回ります。
台所の裏にあった物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにしました。更に部屋の奥を探ると、白小袖を着た老人を見つけます。この老人を間十次郎が槍で突いた後、武林唯七が更に刀で斬り絶命させました。

年恰好からこの老人が上野介であると思われますが、あいにく四十七士は吉良本人の顔を知りません。背中に主君浅野内匠頭が一年九か月前に斬りつけた傷跡を見つけ、ある程度確証を得た後、更に吉良方の足軽に吉良本人であることを確認しています。

映画やドラマでは、吉良らしき老人を捕らえ、傷跡から本人だと問い詰め、大石と問答を交わした後、首を討たれるというシーンがありますが、そんな悠長な場面はなかったようですね。

泉岳寺境内にある赤穂義士記念館 忠臣蔵についてのビデオも上映されています

吉良の首を獲ったところで仇討の目的は達成されました。合図の笛を吹き、邸内の四十七士を集めます。侵入から討ち取りの確認までわずか二時間程度の出来事でした。
双方の死傷者は、吉良側の死者は15人、負傷者は23人であったのに対し、一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は2人という一方的な勝利といえます。負傷者は原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫したのと、近松六が庭で敵と戦っているときに池に落ちてしまい、太ももを強く刺されたというものでした。

吉良邸跡(本所松坂公園)の吉良側犠牲者の碑(上と人数が合いませんが・・)

吉良上野介の最期については、「江赤家秘録(ごうせきかひろく)」という広島大石家に伝わる文書によると次のようになっています。武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ、小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取った、とされています。さらに引き上げの際、間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢したのに対して、武林唯七が憤って「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と言い返した、と書かれています。協力して仇討をした浪士たちが、手柄を取り合っているようでなんともおかしな気分になります。
吉良の首を獲った一行の泉岳寺への凱旋については次回に。

吉良 KILLER TEAM

討入りを果たした赤穂浪士の数は四十七ですが、大石が11月29日に作成、内匠頭の妻瑤泉院に提出した書状には仇討の参加者は50名となっていました。そこに名前があった矢野伊助・瀬尾孫左衛門・毛利小平太の3名が直前に脱盟したからです。

四十七士は本所にあった堀部安兵衛杉野十平次の借宅で火事装束に着替えていますが、それに先立ち、大高源吾は茶の湯の師匠、山田宗偏のところへ茶の湯用の自在竹(釣釜を吊るすのに用いる竹製の自在鉤)を持っていき、改めて本日吉良邸で茶会が催されることを確認しています。失敗は許されない討入りですから、念には念を入れていますね。

泉岳寺 大高源吾の墓

それぞれの集合場所を出立したのは午前4時ごろです。14日に茶会が行われているので、現在の時間間隔では夜中の12を過ぎており、15日じゃないの?と思うところですが、当時の日付・時間の考え方では1日の始まりは夜明けからでした。ゆえにまだ夜が明けていないので日付は14日なのです。

吉良邸の敷地は約2,550坪ありましたが、現在公園として残るのは30坪足らずです

今の本所松坂町公園を見て、こんなところ?と拍子抜けしますが、実際はこの85倍の広さがありました。当然、門は一つだけでなく表門・裏門を備えています。そのため表門を襲う隊と、裏門の隊とに分かれ、前者は大石内蔵助が、後者は大石主税(ちから)が率います。表門隊は梯子を使い塀を乗り越えて吉良邸に侵入、裏門隊は掛矢(かけや)で門を打ち破って侵入しました。掛矢というのは両手で用いる大型の木槌で、元々は火消の際に延焼を防ぐため家屋を打ち壊すための道具です。火事装束がここでも役に立ちました。表門隊は侵入するとすぐに、「浅野内匠頭家来口上書」を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てました。この口上書は大石を筆頭に四十七士の連名で書かれていて、何のための襲撃かを世に知らしめる意味がありました。

一方、裏門隊は「火事だ!」と叫んで周り、家臣たちを混乱させています。

さて、本日は2022年の大晦日。当初今年中にこの稿を終わらせる予定でしたが、なんと年明けに仇討の続きを書く、ということになってしまいました。襲撃後の話は次回に。