至時は、寛政暦の制作のおため、江戸に移り住んだあたりから、労咳、つまり結
日々の天文方の研究をしながら、忠敬の測量を指導したり、ある時には測量時に起きたトラブルで忠敬をたしなめるなど、忠敬のバックアップに尽くしました。
その至時の体調を再び悪化させたのが、ラランデ暦書です。その内
忠敬は至時の死後も測量を続けましたが、毎朝、至時の葬られた上
息子の景保が19歳にして天文方の後継者となり、父の仕事を受け継ぎました。
忠敬が亡くなったのは、文政元年(1818年)4月13日師の死から14年後のこと。弟子たちに見守られて74年の生涯を終えました。この時点でまだ「大日本沿海輿地全図」は完成しておらず、忠敬の死は秘せられたまま、景保を中心に地図作成作業が続けられます。文政4年(1821年)ついに地図は完成し、9月4日、忠敬の死が正式に発表されました。
忠敬のお墓は2つあります。ひとつは伊能家の当主としての佐原の墓。もうひとつは「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだあとは先生のそばで眠りたい」という遺言を受けて、同じ上野源空寺に葬られました。
師弟の話、これで終わりです。お付き合いいただきありがとうございました。 ですが、明日はこの地図と、至時の息子景保の話を続けます。