おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

上水の樋(ひ)から水が漏る2

「江戸」の地名は平安時代後半に発生したといわれていますが、江(川・河)の入口(戸)が語源という説が有力です。

平安時代末期から鎌倉時代には、この地の名前を名乗った「江戸氏」がこの地を支配しました。しかし、室町時代にはその勢力が次第に衰えていき、その本拠地であった地に太田道灌江戸城を築きました。

現在の江戸城二重橋西側に「上道灌堀」富士見多門櫓の西側に「下道灌堀」の名前が残っていて、この辺りが当時の城の中心地だったことをうかがわせます。

1590年、北条氏滅亡の後、徳川家康が江戸に入った時は、荒れ果てた江戸城跡と、大手門の周辺に100件ほどの人家という状態だった、と伝わっています。

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現在の江戸城大手門 家康入府当時は荒れた城跡だったと思われます

江戸城の南には、「日比谷入江」がありました。文字通り、日比谷のあたりまで海が入り込んでいたわけですね。

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日比谷公園 この辺りも海か河口の一部だったのでしょうか

更に新橋の少し南側には「汐留」の地名があります。海が満ちてきたときに、海水が江戸城の外堀に流れ込むのを防ぐため、海と堀を仕切る「堰」を設け「汐(潮)」をせき「留め」ていたことに由来します。

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汐留の浜離宮公園 潮の干満による景色の変化を楽しむ庭園です

こんな地形ですから、井戸を掘っても塩水が出るばかりで、飲料には使用できません。江戸の街づくりは、飲料水の確保から始まった、と言えます。

この話、まだまだ続きます。