火刑に処せられる前に、市中を引き回されるのですが、その様子は次のように書かれています。
今日は神田のくづれ橋に恥を晒し、または、四谷・芝の浅草・日本橋に人こぞりて見るに惜まぬは無し。
江戸の街中、お七を見ようと人が集まり、皆がまだ若い娘の命を惜しんでいます。
世の哀 春ふく風に 名を残し おくれ桜の けふ散し身は
と辞世を吟じて、夕刻、鈴ヶ森の刑場でその身は焼かれ、うき煙となりました。
家族は卒塔婆を建てお七を弔います。
さて、吉三郎はこの間何をしていたのかが気になるところですが、彼は病の床にあり、お吉が放火をしたことも、その故に火刑に処せられたことも知らないでいました。死後百日にしてやっと立ち上がることができるようになり、竹の杖を頼りに寺内を歩いていたところ、卒塔婆に愛する人の名を見つけ、大いに驚き、悲しみ、自害しようとします。しかしお七の両親や寺の人々に説得され、お七の霊を供養するため、吉三郎は出家するのでした。
このエピソードが、歌舞伎・浄瑠璃等で色々なバリエーションで演じられます。
落語では、お七を裁く際、当時の老中、土井大炊頭はなんとかお七の命を救おうと奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせます。十四歳であれば、減刑されるため、火あぶりでなく遠島で済んだからですが、お七は正直にも「十六でございます」と答えたため、火あぶりになってしまった、という流れです。
また、別の落語では、お七の死を悲しんだ吉三郎が、後を追って川へ身投げする筋になっていて、あの世で抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(お七+吉三で7+3=10)という下げになるものもあります。
十六の可憐な少女の物語は、ここ駒込の地から大阪の西鶴の手によって更に大きく広がり、今に至っています。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。