おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)5

お話を安政3年(1856)の腸チフス全快時期に戻します。諭吉の兄が大坂蔵屋敷での勤務年期が明け、中津へと帰る時期になりました。諭吉も病は癒えたものの、とりあえず兄と一緒に帰ることになったのが五、六月のこと。いったん帰ったものの、八月にはまた帰坂、中津藩の屋敷の空き部屋から独居自炊して適塾に通っていたとあります。

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適塾一階の一部屋

ところが、九月になると、中津の兄が病没、あわてて戻ったところ、知らぬ間に福沢家の当主として相続させられていました。(それまで叔父の養子となっていて、中村姓を名乗っていました)当然相続後は兄と同様、藩勤めをしなければなりませんが、なんとか大坂に戻って蘭学修行を続けたい諭吉は、当初は叔父に相談しますが「けしからぬことを申すではないか。兄の不幸できさまが家督相続した上は、ご奉公大事に勤めをするはずのものだ。」と大いに叱られてしまいます。母に頼むしかない、と考え、母親に談判します。「私はいまから寺の小僧になったと思ってあきらめてください」

普通なら叔父さんと同じように諫めて押しとどめそうなところですが、そこがただの武士の妻、母親と違うところでした。「兄が死んだけれども、死んだものはしかたがない。おまえもまたよそに出て死ぬかもしれぬが、死生のことはいっさい言うことなし。どこへでも行きなさい。」中津藩へのしがらみだけでなく、封建制度の呪縛から諭吉を解き放ったひと言でした。

これで中津藩を出られる条件の一つは整いました。もう一つ大きな問題となっていた周囲の人たちへの借財(四十両を超える)も、亡父の蔵書や骨董などを売り払い、なんとか払いきりました。最後に、大阪の緒方洪庵のもとに「砲術修行」に参ります、という趣旨の願書を提出し、なんとか大坂へ出ることが許されました。

こうして、改めて諭吉は適塾の門をくぐります。