嘉永7年(1855)11月に「安政」へと元号が改まりました。この年の1月にペリーの二回目の来航、3月に「日米和親条約」が締結され、翌月には京都の大火で内裏が消失しました。その年は地震が頻発し、これらの災厄・異変のため改元が行われたのでしょう。
しかし「安政」とはいうものの、翌年からも災厄が日本を襲います。
同3年:台風で江戸に高潮と津波の被害。死者10万人とも
同5年:安政の大獄始まる。 同時期にコレラが流行(~安政七年)
まさに内憂外患のオンパレード、という感じですが、今回取り上げるのは安政5年から7年の間に日本国内で猛威を振るったコレラについてです。
「コレラ」はコレラ菌を病原体とする伝染病で、元々インドのガンジス川流域の風土病で、元々は日本国内には存在しない病気でした。最初に日本で流行したとされているのが、文政5年(1822)のこと。この時の感染ルートは、清から沖縄を経て九州へ。西日本で大きな被害を出し、東海道を途中まで東進したものの、幸いにも江戸までには至りませんでした。
洪庵は備中国足守(現在の岡山市北区足守)の生まれで、幼いころから病弱で武道の道には進まず、医学の道を志します。この文政期の日本で最初のコレラ流行が、洪庵に漢方医学の限界を感じさせ、結果彼を西洋医学の道に向かわせます。
二度目のコレラ流行に、洪庵が立ち向かったのはなにか運命的なものを感じます。
洪庵の大阪での活躍は次回で。