おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

冗談は、寄席6

噺家が寄席で演じる演目は、通常事前に観客に演目を知らせて行うものではなく、その日の演者の気分で演じるのですが、当時圓朝が演じていたのは芝居噺、芝居の背景(書き割り)や鳴り物を入れて芝居と同様に噺として演じるものです。そのため、演目によって背景(書き割り)が異なっています。見る人が見れば、背景から演目が推測できます。

師匠の圓生(二代目)はこれを悪用します。助演で圓朝が演ずる予定の噺を先に演じてしまいます。何とか背景の似た噺でなんとかしたものの、このことで従前からある噺だけでなく、新たな落語の創作に取り組むことになります。新作の道具入り芝居噺で圓朝の人気はさらに高まりますが、この時期に作られた新作落語が今ではオーソドックスな古典落語として今に伝わっています。「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「怪談乳房榎」などの怪談ものや、三題噺から生まれたとされる人情噺「芝浜」も圓朝の作(異説あり)と言われています。

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怪談乳房榎」の舞台  豊島区高田の南蔵院

明治維新後も、弟子の圓楽圓生名跡を継がせ、自身の芝居噺の道具を譲り、道具を使わず、扇子と手ぬぐいのみで演じる「素噺」(すばなし)にいち早く転向します。

素噺への転向は明治五年(1872)の頃のことですが、これは当時の政府が、寄席で演劇に類した上演を禁じたのに素早く対応したものでした。当時の落語の真打は、笑いを取る、というより長編の人情噺で惹きつけることが求められました。そのため、自然と観心理描写や情景描写がきめ細やかなものになります。

話芸のみならず、精神修養のため禅の世界にも足を踏み入れ、その縁で槍の名人と言われた高橋泥船(たかはし でいしゅう)とその義弟、山岡鉄舟を知ることになります。

鉄舟との出会いが、更に圓朝の精神と話芸を磨くことになりました。この話は次回に。