おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

冗談は、寄席9

圓朝の墓の右横にある墓石に「先祖代々の墓」とあり初代から四代までの圓生がここに眠っています。「先祖代々」とありますが、この四人は「圓生」の名跡を継いだだけで、血縁関係があるわけではありません。

初代は圓朝の生まれる前年にこの世を去っており、落語の世界で直接かかわってはいませんが、「三遊派」の流祖であり、本家に当たります。

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全生庵 三遊亭圓生代々の墓 基礎部分に「三遊亭」の文字が

二代目の圓生は、圓朝の師匠にあたりますが、先にご紹介したとおり、圓朝の出番の前に予定の演目を先回りして嫌がらせを行った師匠です。晩年は病気がちになり不自由な生活を送りましたが、若い時の恨みを忘れ、師匠に手当を送っていたそうです。禅の修養を積んだ圓朝は、当時の嫌がらせがあったからこそ、新作世界を拡げ、結果芸を磨くことができたという境地に達したのかも知れません。

もうひとつ、圓朝の墓の左下隅の方向に、円柱形の小さな墓石があります。

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円柱形の墓 「ぽん太之墓」の文字が

「ぽん太之墓」と刻まれています。圓朝に飼われていた犬か何かの墓と勘違いされることがあるそうですが、れっきとした噺家です。元々圓朝の下に出入りする髪結いの見習いをしていたといいますが、愛嬌があり、そのころから「ぽん太」と呼ばれていたそうです。明治になる直前に圓朝の門下(圓朝より七、八歳年上でしたが)となり、小噺や音曲を演じていました。今でいう天然ボケで邪気のないところから、圓朝は年上のこの人物を可愛がっていたようです。圓朝の亡くなるよりも二十年弱も前にこの世を去りますが、身寄りのなかったことで、圓朝家の墓の隣に葬られました。

ぽん太は二つ目で噺家を終えていますが、圓朝門下からは、三代目・四代目の圓生(三代目圓生圓朝より先に他界)が出た他、三遊亭の総帥として多くの弟子たちを育てました。また、怪談噺の参考として幽霊画を取集していましたが、そのコレクションは全生庵に遺されていて、圓朝の命日である八月十一日を含む約一か月の間一般公開されています。

圓朝の話はここまですが、次回は太平洋戦争前に落語界に起こった事件をご紹介します。