おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

お楽しみはこれ、カラーだ4

昭和三十九年(1964)、東京オリンピックの開催した年のテレビ受信契約数は約1700万件、世帯普及率は87.8%になっています。昭和三十四年(1959)のご成婚の年のそれは約415万、23.6%と、この五年の間に契約数は四倍以上になりました。(昭和三十九年の16型白黒テレビの値段は6万円ちょっとまで下がり、だいぶん求めやすい価格に落ち着いてきています。この年の都市勤労世帯の月平均収入が6万3千円くらいです)

しかし、カラーテレビの値段は17万8千円でまだまだ手が届きません。(これでも四年の間に三分の一程度まで下がっています)

カラーテレビの値段は高止まりしますが、一方で所得は増え、昭和四十六年(1971)には、ほぼ倍の12万7千円くらいになりました。ちょうどそのころ、テレビ放送におけるカラー放送が急速に普及、翌々年の昭和四十八年(1973)には、ついにカラーテレビの普及率(75.8%)が白黒テレビのそれ(65.4%)を上回りました。

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東京オリンピックの頃販売されていたカラーテレビ

ところで、この時代のテレビの画面の縦横比(アスペクト比といいます)は4:3でした。現在の比率は16:9でだいぶ横長になりました。人間の視野に合わせたもので、ハイビジョン放送はこの規格です。日本のハイビジョン研究は昭和の東京オリンピックの時期から研究されていました。

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ハイビジョン用テレビカメラ(1980):放送博物館

1980年代に入って、実用化に向けた機材は次々開発され、昭和五十七年(1982)5月には世界初のハイビジョン番組を制作、年末の紅白歌合戦は実験的にハイビジョン収録が行われました。平成六年(1994)からは、実用化試験放送が開始され、並行してテレビ放送のデジタル化が進められます。

デジタル化にあたって、東京タワーの高さでは、都心の高層ビルによって受信電波障害が発生し、アナログ放送と同様の首都圏域すべてをカバーできないといわれていました。その問題を解決するために、高さ600Mを超える新しい電波塔が必要でした。