おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

参りゃんせ~行きは良い酔い、帰りはWHY?7

摂社とは、神社本庁HP等によると、神社の境内にある小さな社に対し摂社・末社と呼んでいて、戦前には摂社・末社の区分も設けられていました。現在では、本社との由緒の深い神社には摂社の呼称が用いられていることが多いようです。

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牛天神の摂社 太田神社

太田神社ですが、拝殿の額には「太田神社・高木神社」と二つの名前が記されています。太田神社については後で述べるとして、高木神社は、北西の方向、小日向一丁目のあたりにあった第六天社が、道路を拡張する際、この場所に併せてお祀りしたものだそうです。

太田神社については、芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と道の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)という夫婦の神様をお祀りしていることになっていますが、

神仏習合が普通だった明治以前には、「貧乏神」として、「黒闇天女(くらやみてんにょ、くろやみてんにょ)」をお祀りしていました。「黒闇天女」は、仏教の護法神の一人で「黒闇天(こくあんてん)」とも呼ばれ、同じく護法神の吉祥天の妹にあたります。経典の中には、「姉が人に功徳を授け、妹は人に禍を授ける。二人は常に同行して離れることはない」という記述もあり、「幸と不幸」「陽と陰」という関係なのかもしれません。

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案内板にはこう書いてありますが

「太田神社の御由緒」に、以下のような記述があるそうです。

昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老婆が立ち、 「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ…」と告げた。

正直者の旗本はそのお告げを忘れず、実行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになりました。

老婆がが告げたお告げというのが、「毎月、1日と15日と25日に赤飯と油揚げを供え、わしを祭れば福を授けよう…」というものでした。

以来、この「福の神になった貧乏神」の話は江戸中に広まり、今なお、お告げは守られ、多くの人々が参拝に訪れている。

というものです。

旗本が住んでいたという「三百坂」というのは、手塚治虫先生の「陽だまりの樹」の冒頭に出てくる舞台で、この場所からは北に500Mくらい離れた場所。上の話だけだと、この場所にお祀りされて井理由までわかりません。

その旗本が神像を彫刻して牛天神に奉納したのが始まりで、その後一人の大工が幕府の工事を請け負い、祭神に仕事の成功を祈ります。「願いが成就すれば神殿を造り奉ります。」幸いにも仕事は成就、大工は約束どおり、新しい祠を造り、旗本の神像を祠に遷座させた、というところまで話が繋がっていました。

話は変わりますが、境内に桜の木がありますが、水戸光圀公は自ら牛天神を崇敬され、桜の木五本を奉納したうち、一本のみ残って現在に至っているそうです。

以上、牛天神(太田神社含む)の話は終わりですが、梅の時期の次には、桜も楽しめそうです。最後までお読みいただき、ありがとうぎざいました。