ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。平河天満宮をご紹介する際に、「居城のあった川越から天神さまと
しかし、元祖江戸城築城時にはわざわざ勧請するまでの信仰を集めていた「山王信仰」についても、「川越つながり」でご紹介しようと思います。
勧請元の川越日吉神社ですが、貞観二年(860)に円仁(慈覚大師)が川越の喜多院の鎮守として近江坂本の日吉大社を勧請したのが始まりといいます。平安時代からこの地にあったわけですね。
円仁(慈覚大師)は、下野国(栃木県)の生まれで、天台宗開祖、最澄(伝教大師)の弟子にあたります。最後の遣唐使として唐に渡って修行、帰国後関東で209寺、東北に331寺余を開山・再興された後、第三代天台座主となりました。
川越の喜多院の他、目黒不動尊瀧泉寺や山形の立石寺も円仁が開基とされています。で、円仁が勧請した近江坂本の日吉大社(ひよしたいしゃ)は、全国に3800あるといわれる、日吉・日枝・山王神社の総本山にあたります。
日吉=日枝でもともとは「ひえ」と呼んでいました。「ひえ」は天台宗延暦寺のある「比叡山」=「ひえのやま」が起源です。神仏習合の考えでは、延暦寺を鎮守するのが日吉大社ということになります。山をあらわしたものか、鳥居は「山王鳥居(合唱鳥居)」という独特の形式です。(各地の日吉神社がすべてこの形式というわけではありません)
そうしたつながりから、平安~室町時代にかけ、比叡山の僧兵と日吉社の神人が神輿を担ぎだして強訴(ごうそ:示威的なデモンストレーション)を行ったことが知られています。しかし戦国時代、織田信長の比叡山焼き討ちにあい、日吉大社もすべて灰となってしまいました。現在の建造物は、いずれも信長死後のものです。
この日吉大社復興に尽力したのが豊臣秀吉です、幼名「日吉丸」。次回は安土桃山時代以降のお話です。