おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

ひえひえのあつあつ3

「肥後手まり唄」の歌詞は

あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ せんばさ  

せんば山には狸がおってさ  それを猟師が鉄砲で撃ってさ

煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいとかぶせ

「肥後」とか「熊本」とかが出てくるので、関東の川越が舞台という説には一見??と感じますが、歌詞に表された会話の内容をよく見ると、うなずける説となっています。

まずは、「あなた方はどこから来られたの?」の質問に「肥後」とか「熊本」と応えているので、質問をする側、つまり現在地は「熊本」ではない。地名として触れられてはいるが、舞台は熊本ではあり得ない、ではどこか、それがこの場所「仙波山」だという説です。

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古墳頂上の神木切株に書かれた縁起

言語学的にも、歌詞の会話には、熊本の方言は使われておらず、関東の方言であることが指摘されているそうです。問答歌の手まり唄は、幕末から明治初期に生まれた形式で、戊辰戦争で熊本人(肥後細川藩士でしょうか)が川越市の仙波山に駐屯した際の現地の子供たちとのやりとりが元になっている、というのが「川越舞台説」です。

川越藩松平氏は、慶應四年(1868)に官軍に帰順、上野戦争後の彰義隊残党と戦っています。川越藩の子供たちが官軍兵士(熊本人)のご機嫌を取って「あんたがたどこさ?」「肥後さ」という会話の情景が想像できます。この説への反論は当然あると思われますが、この稿では「川越舞台説」の紹介に留めることとします。

すっかり話が別の方向に逸れてしまいましたが、江戸城築城の際、太田道灌はここ川越の日枝神社を勧請します。その後家康入府のさい、いったん城内の紅葉山あたりに遷座しました。

再び遷座し、現在の永田町の山王日枝神社に移ったのは、明暦三年(1657)の明暦の大火で社殿が消失したのが原因です。

次回は東京の山王日枝神社の紹介に移ります。