おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

(菖蒲の)時は今、雨がしたしる水無月かな2

漠然と千葉県と茨城県の境界は利根川、という認識が強かったのですが、河口の銚子の当りはその通りでも、地図で川をさかのぼって見ると、佐原あやめパークは利根川より北にありますが千葉県は香取市内にあります。
では県境はどこか、と見るともう一本北に支流の常陸利根川が流れていて、その川が両県の境になっていました。

潮来にかかる橋 水運の要所でした(水郷巡りの舟も見えます)
利根川というと今では銚子の北に河口があり、太平洋に流れ込んでいますが、これは江戸時代初期に「利根川東遷事業」という大規模な河川の付替え工事(約60年かけて行われました)によるもので、それまでは、現在の江戸川(流域は若干異なります)が利根川の本流として江戸湾に注いでいました。文字通り「東遷」、東側に川の流れを移動させたわけです。
この「利根川東遷事業」が行われたのには、治水というよりは利水、水運整備の必要があったからです。
徳川氏の入府後、政治都市となり人口増加を続ける江戸において、その消費需要を賄うため、物流を確保することが必要であり、水運路の整備は不可欠でした。この工事により、東北地方を中心とする各地から太平洋側に物を集め、更に利根川をさかのぼり江戸に至る舟運で江戸に運ぶルートができました。潮来も佐原もその中の物流拠点として発展した街です。

周遊観光用の舟が多く繋がれています 写真の左側が潮来あやめ園
まずは北の「潮来」からご紹介していきます。潮が来る、と書いて「いたこ」、難読地名ですね。
常陸国風土記によれば、古くは「伊多久(いたく、板久とも)」と呼ばれていた記録があります これは崇神天皇の時代(3世紀後半から4世紀前半と思われます)、後の大和朝廷による東国平定で、先住民を討伐した際に、いたく痛がりながら死んでいった、という故事からこの地名がついたとされています。ちなみに恐山などで知られる「イタコ」とは言語上の関係は無いようです。
と、伝説上の由来はそうなっていますが、痛んだ様子の崖の地形から「痛く」の名前があるのではないかとか、「大きな砂粒」を意味する「いたこ」が由来との説もあります
「いたこ」に「潮来」の文字が充てられたのは江戸時代、水戸光圀公が関わっています。この話については次回に。