おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

混ぜるな飢饉!負けるな飢饉!5

天明七年(1887)、江戸の庶民も米価の高騰に苦しみ、奉行所にお救い願いを行いますが、奉行所はこれを拒否、庶民の困窮を救済する策を打ち出しません。公儀に対する不信が高まり、ついに5月、赤坂や深川で大規模な打ちこわしが発生しました。

翌日には江戸の中心部から周辺全域に広がっていきます。

「打ちこわし」というと米屋を襲って、蔵の米や財物を奪っていくようなイメージですが、この時のものはそうではありませんでした。標的の商家の門を大八車で突破し、門塀、壁、障子、畳、床など家屋を破壊します。ここまでは「打ちこわし」そのものですが、商家の米や麦、大豆などを路上にぶちまけたり、川に投げ入れたりしていますが、盗賊行為はほぼ発生していません。

この騒動を見ていた水戸藩士が、この打ちこわしを評して「まことに丁寧、礼儀正しく狼藉」と記録に残しています。自分たちは盗人・盗賊などではなく、米の価格高騰の中で暴利をむさぼる商人に制裁を加え、世直しを要求する集団だ、という矜持があったのかも知れません。

とはいっても江戸の噂が佐原に聞こえてきたとき、「佐原でも一揆・打ちこわしが起きるのではないか」と心配する商人たちの中かわは、皆で金を出しあって地頭所の役人に来てもらい、打ちこわしを防いでもらってはどうかという意見が出されました。

関東三大祭りの一つ、佐原の大祭

しかし忠敬は、「役人は役に立たない、一揆に驚いて逃げてしまうだろう」と反対します。村方後見の自分たちに、佐原の行政を負わせるような領主の姿を普段から見ていたからでしょう。忠敬らは、それよりも農民たちに米や銭を与えて、農民たちで町を守ってもらおう、と提唱し、結局この意見が採り入れられ、役人の力を借りることなく佐原の町を守ることが出来ました。

町の自治の伝統が祭にも表れているのでしょうか

現在の佐原でも、住民の方々が工夫をされての町並保存のため努力をされているのを見ると、この精神は今にも残っているような気がします。

天明の噴火と飢饉、打ちこわしなど長々と述べましたが、この稿は以上です。

最後までお読みいただきありがとうございました。