おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

(菖蒲の)時は今、雨がしたしる水無月かな3

水戸黄門として知られる徳川光圀は、水戸徳川家の第二代藩主です ドラマのように日本全国を漫遊したという史実はありませんが、領内各所を巡っており、それにちなんだ話が多く残されています。
当時この地は「板来」と呼ばれていたのを、光圀が「これからは潮来と改める」よう命じたことから「潮来」となりました。
光圀がなぜそんなことを命じたのか、領内で聞きかじった話が関わっていました。
鹿島にある潮宮(いたのみや、いたみや、とも)神社を訪れた際、珍しい読み方に興味をもち、なぜ潮を「いた」と呼ぶのか、と土地の者に問いました。

潮宮(いたみや)は鹿島神宮末社だそうですが、残念ながら手元には写真がありません

土地の者が答えるには、
「この地方では潮(流)のことを「いた」と呼んでおるのは、凪いだ時の潮の状態が板のように平面に見えることからです。更には水の流れが木目のように見えることから、古くから潮を“板”に例えて呼んでおります。」
光圀はその答えがたいそう気に入ったとのことです。同じ領内である「板来」でそのことを思い出したのか、前述の潮来改名につながったようです。

すっかり地名の解説が長引いてしまいましたが、水郷の町である潮来は、昔からアヤメ(花菖蒲)で知られており、大正末期に観光用のアヤメ園が造られましたが、太平洋戦争の際に、食料調達のため水田に替えられてしまいました。堀切菖蒲園の周辺にあった他の菖蒲園も水田になった、といいますから、花よりコメ、という戦時中の国策に従ったといえます。

潮来のあやめ園

いったんアヤメが見られなくなった潮来の地に、再びアヤメの花が咲いたのが昭和二十五年(1950)のことでした。その話は次回に。