おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

涙、武士だよ人生は4

プチャーチンが幕府の要請を受けて下田に来航したのは10月14日のこと。これまで表記してきた日付は日本の暦によるもので、ロシアを含むヨーロッパの暦では12月3日にあたります。ここでその話をしたのは、ここから先、日本暦では年末なものが、西洋暦では翌年の正月にあたる、というギャップが生じています。

下田の地で、プチャーチンの交渉相手となったのは、前年12月と同様に川路聖謨筒井政憲らでした。プチャーチンは、アメリカと日本が条約を結んだことを知っており、長崎で合意した、「日本が他国と通商条約を締結した場合には、ロシアにも同一の条件で条約を締結」するよう求めます。

このころ英龍はというと、お台場築造が志半ばながらもいったん終了し、韮山反射炉の築造に向けて指図を行っていた時期です。

ロシアとの交渉が始まった直後の11月4日、西洋暦では12月23日という年の瀬に、下田を含む伊豆、駿河遠江などに大きな被害をもたらした「安政東海地震」が発生しました。午前9時15分に発生したというこの地震の規模はマグニチュード8.4と推定されています。東海道の三島宿では宿内一軒も残らず潰れ、町中は一町余り焼失、水を噴出す場所もあったと伝わっています。

韮山の江川邸は、高さ12メートルの大屋根を豪壮な木組みが支えており、倒壊することはありませんでした。しかし、英龍の管轄する伊豆の地は大きな被害を受け、被災民の救済にも追われることとなりました。

江川邸の屋根を支える木組 大地震にも耐えました

ロシアとの交渉地となっていた下田は更に大きな被害を受けています。地震による建物の倒壊もさることながら、5メートルを超える高さの津波が何度も押し寄せ、全戸数856のうち前回流失した家屋が813戸といいますから、殆ど全滅状態でした。

津波は港内に停泊していたディアナ号にも押し寄せ、2000トンもある大鑑が津波の渦に巻き込まれて回転し、マストは折れ、舵や竜骨は破損し浸水するなど、航行が不能な被害を受けました。次回、ディアナ号のその後です。