この戸田の地が修理港として選ばれた最大の理由として、海に面した西側以外の三方が山に囲まれており、英仏と交戦中のロシア船ディアナ号にとって、敵の目に触れにくいということがありました。
大破したディアナ号は、英仏の軍艦に見つかって攻撃されたらひとたまりもありません。「見つからないこと」が条件となるのは当然のことですね。戸田港の周辺地図を拡大すると、更によくわかります。
南から北に向かって御浜岬が突き出ていることから、湾口が狭くなっていて、外洋からは見通せない地形になっています。加えて内側は砂浜で砂浜は遠浅で、巨大な船の底部を横倒しにして修理するのに適しており、うってつけの場所でした。
嘉永七年の11月26日朝、前日からの雨の降り続く下田港を付添いの日本船と共に出航しました。伊豆半島の最南端である石廊崎の沖を回って北上したところまでは良かったのですが、そこから先は風が不規則で思うように進むことができません。
日が没してからは南西からの強風により、海は大しけとなりました。
ディアナ号は代用の舵(元の舵は地震の際の津波で破損したため、代用の舵で操船を行っていました)の操作で西伊豆の海岸に激突するのを防いでいたものの、その舵も使い物にならなくなり、27日の午前三時ごろディアナ号の航行は困難となり、すべての帆を下ろし投錨しました。付添いの日本船も帆が裂けるなど危険な状態となり、その場を離脱して近くの陸地に乗り上げてしまいます。
残されたディアナ号の乗組員は、船への浸水をポンプで排水しますが、深水は止まらず、その間船は北へと流されていきました。27日の朝方に宮島村(富士市)沖合約180Mの位置にいましたが、夜に入り翌日の朝を迎えたところで、深水の止まらない船は沈下し始めます。
士官たちは協議し、大型ボートを下ろして、航行不能となったディアナ号を北の宮島村まで引いていくことにしました。ボートはディアナ号と太いロープを結び付け、浜を目指して進んでいきます。
浜には多くの村民たちが集まっていました。近づいてくるディアナ号とボートが気になっていたのでしょう。村民は沖の船がどういう状況か、そしてこのボートが何をしようとしているのかを察しました。
村の男たちは波に流されぬよう、自分たちの身体に綱を巻きつけ海に飛び込んでいきました。国境を超えた救出作業が始まりました。この続きは次回で。