おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

虎は死して皮を残す 龍は死して永遠に残る

英龍が亡くなったのは正月16日ですが、その死の公表(発喪)は一か月以上先の翌2月26日のことでした。後継ぎ(継嗣)の手続きがされる前の急死であったことから、公表を遅らせたのです。正月22日、英龍の遺体は江戸の屋敷を出発し韮山に向かいましたが、棺を長持の中に入れ、一行は荷物を運ぶ行列であるかのように東海道を下っていきました。

その死を秘しての韮山への帰郷でしたが、支配地である伊豆の人々には伝わったのでしょうか、長持を拝み、涙を流して地に伏して迎えたと伝わっています。「世直し江川大明神」と称えられた名代官ならではのエピソードですね。

25日に韮山に到着、27日に菩提寺の本立寺に葬られました。

本立寺の江川家墓地

英龍の跡を継いだのは三男の英敏です。長男・次男とも早世したためですが、この時わずか十六歳でした。代官として支配地の治政を行う他、反射炉、西洋船建造、お台場築造など英龍の志半ばとなっていた事業は英敏の代で完成されています。

これは英敏の能力もさることながら、英龍が韮山塾や代官の業務を通じて後進を育て、その人々がうまく英敏を支えた、というのが実際のところではないでしょうか。

まず、英龍が死去した約2ヶ月後の3月15日に西洋式帆船が竣工します。

総長24.57m、幅7.02mで排水量100tのこの船は、「ディアナ号」(それぞれ 53.33m、14.02m、2000t)に比べると小さなものでしたが、言葉や度量衡の単位の違いを乗り越えてわずか3ヶ月で完成させたこの船を、プチャーチンはこの地への感謝を込めて「ヘダ号」と名付けました。

ちなみにプチャーチンはこの間に日露間の外交交渉も進め、安政元年(1854)12月21日に日露和親条約の締結に成功しています。自身の船を失った状態で日本人の好意に感謝しつつも、しっかりと自国の主張を通し外交官の役割を果たした彼の業績も称賛に値するものといえます。

さて、小さな「ヘダ号」に乗ることのできる人員は約50名。戸田に残されたロシアの乗組員は約500名。彼らは故国ロシアの地に帰り着くことができたのでしょうか。その話は次回で。