おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

悲願花と椿

彼岸花について書いた前稿の最初に、新美南吉の代表作「ごんぎつね」と彼岸花のイメージについて触れ、作中では兵十の亡母の葬列の行きと帰りのシーンにその記述があることをお伝えしました。

葛飾区宝蔵院の彼岸花(2022年9月23日撮影)

彼岸花の名所について調べた際、南吉の故郷である半田の矢勝川(やかちがわ)の堤が彼岸花の名所であることを知りました。東西約2kmにわたって、300万本の彼岸花が咲きそろうそうです。その記事をどこかで見ていて、私のごんぎつねと彼岸花のイメージを形作ったのかも知れません。

南吉は大正二年(1913)に生まれ、昭和十八年(1943)に結核のため、29歳で亡くなっていますが、その時期にはこの川筋の景観は存在していませんでした。

他の群生地と同じように球根を植えて増やしていったのですが、元々は一人の老人の行動が次第に賛同者を増やしこの景観を生み出したのです。

大正七年(1918)に南吉と同じ半田に生まれ、同じ小学校の四学年下であった小栗大造さんがその人でした。思い立ったのが、平成二年(1990)小栗さんが72歳の時のこと。作品の風景にちなんで、南吉の歩いた矢勝川を彼岸花で埋め尽くそうと、まず始めたのが土手の雑草を取り除くこと。それだけで2年を費やし、そこから球根を植えていったといいます。最初は「毒のある、縁起の悪い花を植えるなんて」「堤防が弱体化する」などの非難も受けましたが、次第に賛同する人が増え、自治体も協力するようになり、今の景観となりました。

2kmも続くのを想像するだけでもすごさが伝わります(写真は水元公園

小栗さんは平成二十九年(2017)に99歳で亡くなられましたが、遺言でその死は周りに知らされず、葬式も執り行われませんでした。そして遺体は大学に献体されました。

この話を知った時、南吉の最晩年の作品、「牛をつないだ椿の木」を思い出しました。

人力車夫の海蔵さんが、皆の通る山道の椿の木の近くに井戸を掘る話ですが、日露戦争に出征する直前、完成した井戸で、子供たちに続いて水を飲み、

「わしはもう、思い残すことはないがや、こんな小さな仕事だが、人のためになることを残すことができたからのォ」

海蔵さんは日露戦争で戦死してしまいますが、この童話の最後の部分を、小栗さんの話と重ね合わせると、次のように締めくくれるでしょうか。

しかし、小栗さんのしのこした仕事はいまでも生きています。川の土手に彼岸花はいまも真っ赤な花を咲かせ、川端を歩く人たちはその鮮やかさに魅せられ、また道をすすんでいくのであります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。