前回、開業時の列車に「大久保利通や西郷隆盛の名前もあります」、と大久保利通の名があったと書いていましたが、この時大久保は、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文らと欧米を歴訪中で乗車はしていませんでした。訂正させていただきます。(本文から削除しています)
ちなみに西郷隆盛は、大隈重信と同じ車両(四号車)に乗っており、高輪あたりの海上を走る時の両者の表情や会話は、ドラマで再現したらさぞかし見ものなような気がします。
さて、開業日にスタート地点となった新橋駅。終点の横浜駅と同じ、イギリス系アメリカ人の建設技師、リチャード・プリジェンスが設計を担当しています。
現在同じ地に駅舎とプラットフォームが再建され、往時を偲ぶことができるとともに、建物は鉄道歴史展示室として一般公開されています。(建物内の写真撮影が禁止されているのは残念ですが)
停車場の裏側にはプラットフォームも再現、横のレールや0哩(マイル)標識と共に、鉄道開業当時の貴重な遺跡です。
この駅は大正三年(1914)12月20日に東京駅が開業した際、旅客駅としての使命を終え、貨物駅として再利用されることになりました。その際「汐留駅」と名前を変えています。旅客駅の方はというと、電車線の駅であった烏森駅が2代目の新橋駅となりました。
「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」が「鉄道唱歌」東海道編第1番の歌詞ですが、現在の新橋駅汐留口にはこの歌詞を刻んだ碑が建てられています。
「鉄道唱歌」は明治三十三年(1900)に作詞されているので、この時の新橋駅は初代の駅です。ちなみに3番の歌詞は、
窓より近く 品川の 台場も見えて 波白く 海のかなたにうすがすむ 山は上総(かずさ)か房州(ぼうしゅう)か
となっていて、海沿い(海の上)の列車からお台場が見えている情景が唄われています。
新橋~横浜の話、続きます。