おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

葵(あおい)に塩

塩田にまつわる確執がこの事件の原因だとする説があります。この説は江戸時代に出されたものではなく、戦後に発表されました。昭和五十七年(1982)の大河ドラマ峠の群像」でもこの説が採用され、一般に広く知られるようになります。原作者の堺屋太一さんは通産省官僚で大阪万博の企画なども行ない、後には経済企画庁長官なども務めた人物ですが、経済的な視点も絡めてこの事件を描いておられます。
「赤穂の塩」が有名な播州赤穂ですが、「入浜式塩田」という当時最新の製塩方法を導入し、効率的に良質な塩を生産していました。この製塩方法は瀬戸内の諸藩において広まっていたものです。

瀬戸内地方に発展していた入浜式塩田(墨田区 塩とたばこの博物館)

一方、吉良の領地のあった三河国ですが、遠浅の海岸を利用した戦国時代から製塩が盛んな地域でした。しかしこの時期まだ入浜式塩田は導入されておらず、旧式の製塩法に頼っていました。品質でも効率でも劣後してしまい、現在で言うならば販売シェアを落としている状態です

吉良の領地のあった三河国吉良荘 海沿いの地で製塩が盛んでした

そこで領主であった吉良が、製塩先進地である赤穂藩の浅野にノウハウを教えてもらおうとし、浅野がそれを断ったことから、両者は犬猿の仲になってしまいます。そこから吉良による浅野へのいじめ・嫌がらせがあり、最終的には松の廊下の刃傷事件に至った、というのです。政治・経済の観点から事件の真相に迫ろうというもので、それなりの説得力のある説です。
しかし、吉良浜のある西尾市塩田体験館「吉良饗庭塩の里(きらあいばじおのさと)」のHPに、この説を否定する記載がありました。

それによると、刃傷事件のあった時期にすでにこの地域に開発されていた塩田はあるものの、いずれも吉良家の領地ではなく、また、地域全体の生産量も赤穂をはじめ瀬戸内産には遠く及ぶものではなかったといいます。また、浅野内匠頭の治世中に入浜塩田法を他家・他藩にも教え、他藩の者たちが学びにくることを許可していた、という事例も伝わっており、吉良からの申し出を断ったというのは不自然に感じられます。

それ以外の説として、浅野内匠頭の精神的な病によるもの、という説もありますが、その説については次回に。