おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

ハラキリの真っ最中

ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。

新橋駅から西へ10分ほど歩いたところに「御菓子司 新正堂」があります。

御菓子司 新正堂 暖簾に「切腹最中」と「新橋田村町」の文字が

切腹最中」で有名な和菓子のお店ですが、「新」橋にあって、創業が大「正」元年(1912)であることから「新正堂」の名前があるようです。「切腹最中」自体が売り出されたのは平成二年(1990)といいますから、それほど「伝統がある」という最中ではありませんが、そのネーミングから話題を集め、不手際があったサラリーマンなどが、謝罪の手土産に持参するなど、多い時は一日に7000個も売れるそうです。

さて、暖簾に「新橋田村町」と書かれています。

大江戸今昔巡り では 田村右京太夫三万石 と書かれています

このあたり、一関藩田村氏の屋敷があったことから「田村町」の名前が残っているわけです。で、暖簾には二種類の家紋が染められています。左の家紋が「右二つ巴(みぎふたつともえ)」、右が「違い鷹の羽」といわれるものですが、これらはどちらも一関藩田村家の家紋ではありません。

では、どこの家の家紋が描かれているのか、ということですが、これは元禄十四年(1701)3月14日に起った事件が関わっていて、その事件は「切腹最中」のネーミングとも関係があります。

当時の一関藩藩主は田村建顕(たむら たつあき)といいます。この日、事件の当事者の身柄を預かるように命じられ、夕刻に護送されてきました。大目付の命により即日切腹を行うよう命じられ、藩邸の庭で切腹が執行されました。

辞世の句として

風さそう はなよりもなお われはまた 春の名残りを いかにとやせん

が今に伝わります。

当事者の名は浅野長矩(あさの ながのり)、事件は「松の廊下の刃傷事件」や、その後の一連の仇討までを含めて「元禄赤穂事件」と呼ばれます。「右二つ巴」は大石内蔵助、「違い鷹の羽」は播州浅野家の家紋です。

今回はこの刃傷事件と討入について江戸各地他の写真を交えてご紹介していきます。