細川綱利は、浅野内匠頭が数え年9歳で赤穂藩主となったときにそ
当時の庶民も、細川家が浪士たちを厚遇したことを称賛し、当時の狂歌「細川の 水の流れは清けれど ただ大海の沖ぞ濁れる」が今に伝わります。
「清い」と褒められているのが、細川家と水野家、「濁れる」と貶
ただ、狂歌の中では、細川家と並べ褒められた岡崎藩主水野 忠之ですが、浪士たちを厚遇した記録はなく、浪士たちとの会見も藩邸到着後数
その時に彼らを褒めたとの記録も
長府藩主毛利甲斐守綱元は12月29日、伊予松山藩主松平隠岐守定直にいたっては、預かりの当月でなく翌年正月5日に会見した記録があります。藩主に会うまでの期間が経過しているところが浪士たちとの距離を感じられる気がします。
細川家を除く3藩の浪士たちへの扱いは、幕府からの命をそのまま実行したもので、水野家も毛利・松平家とそれほど待遇は異なってはいなかったようです。が、松平隠岐守定直は正月5日に細「川」と「水」野をセットにして他の2家と差をつけると、狂歌を読むにあたって座りが良かった、ということではないでしょうか。その意味で、水野家はちょっと得をしたかも知れませんね。
さて、4家に浪士たちを預けている間、幕府では彼らへの処分を検討、さまざまに意見が交わされますが、それについては次回に。