側室を増やすだけでは、秩序が保てなくなってしまうので、春日局は大奥の役職や法度などを整理・拡充していきます。彼女がここまで家光の世継ぎに執心したのはひとえに「徳川政権の安定のため」でした。彼女の前半生は戦国の世に翻弄され、辛酸をなめてきたことから、戦乱の世に戻ることを危惧したのでしょう。
また、息子の稲葉正勝も幼少の頃から小姓として家光に仕えています。ドラマでは眞島秀和さんが演じ、家光の死の後を追って殉死するシーンがありましたが、実際には老中の地位に上り詰めながらも激務で身体を壊し、母に先立つ形で寛永十一年(1634)にこの世を去っています。
息子に先立たれた後も春日局は大奥の取締りを続け、寛永20年(1643)にこの世を去りますが、その最晩年、病でありながらも薬を服用しませんでした。これは家光が疱瘡に罹った時、平癒祈願のために自らは一切の薬断ちをしていたからです。
家光が疱瘡に罹ったのは寛永六年(1629)のことですから、十年以上続けていたわけですね。彼女の家光への愛情の度合いがわかります。それを聞いた家光は、薬断ちをやめるように命じ、自ら服薬をさせたと伝わります。その際に薬と共に下賜したのが、現在国法として伝わる曜変天目茶碗でした。
その甲斐なく、春日局は9月14日にこの世を去ります。享年64。文京区麟祥院にあるお墓ですが、墓石に丸い穴が開いている、他に見られないデザインです。「死後も江戸の政治を見守れる墓」を作って欲しいという遺言に従って作られたと伝えられています。
この穴の向こうから、この東京をどのように見ているのでしょうか。感想を聞いてみたい気がしますね。
次回はまた家光の側室たちをご紹介していきます。