おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

小さく生んで大奥育てる5

家光が世継をもうけるよう、側室探しに奔走する春日局ですが、お振やお万の他にお蘭(お楽に改名)、お夏、お玉、お里佐、おまさなどを大奥に入れています。これだけで「七色飯」になっていますね(笑)。
側室を増やすだけでは、秩序が保てなくなってしまうので、春日局は大奥の役職や法度などを整理・拡充していきます。彼女がここまで家光の世継ぎに執心したのはひとえに「徳川政権の安定のため」でした。彼女の前半生は戦国の世に翻弄され、辛酸をなめてきたことから、戦乱の世に戻ることを危惧したのでしょう。
川越の名刹喜多院には、家光の命によって江戸城紅葉山御殿の一部が移築されており、春日局化粧の間や家光公誕生の間などが遺されています。(室内撮影禁止)

喜多院の庭園 正面の樹は家光お手植の枝垂桜(二代目だそうです)
また、息子の稲葉正勝も幼少の頃から小姓として家光に仕えています。ドラマでは眞島秀和さんが演じ、家光の死の後を追って殉死するシーンがありましたが、実際には老中の地位に上り詰めながらも激務で身体を壊し、母に先立つ形で寛永十一年(1634)にこの世を去っています。
息子に先立たれた後も春日局は大奥の取締りを続け、寛永20年(1643)にこの世を去りますが、その最晩年、病でありながらも薬を服用しませんでした。これは家光が疱瘡に罹った時、平癒祈願のために自らは一切の薬断ちをしていたからです。
家光が疱瘡に罹ったのは寛永六年(1629)のことですから、十年以上続けていたわけですね。彼女の家光への愛情の度合いがわかります。それを聞いた家光は、薬断ちをやめるように命じ、自ら服薬をさせたと伝わります。その際に薬と共に下賜したのが、現在国法として伝わる曜変天目茶碗でした。

麟祥院の春日局墓(拡大しすぎてぼやけてしまいました・・)

その甲斐なく、春日局は9月14日にこの世を去ります。享年64。文京区麟祥院にあるお墓ですが、墓石に丸い穴が開いている、他に見られないデザインです。「死後も江戸の政治を見守れる墓」を作って欲しいという遺言に従って作られたと伝えられています。

この穴の向こうから、この東京をどのように見ているのでしょうか。感想を聞いてみたい気がしますね。

次回はまた家光の側室たちをご紹介していきます。