おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

後継の光景

改めて整理すると家光には五人の男子がありました。()内は母親の側室名です。


竹千代(お楽の方):長男 寛永十八年(1641)生まれ。正保元年(1644)に家綱と改名、翌年元服。慶安三年(1650)西の丸に移り、翌年家光薨去受け四代将軍となる。西の丸は現在の皇居にあたります。当時においては大御所(前将軍)や将軍継嗣が住むための場所として使われていたので、ここに移ったということは、次の将軍は家綱であることが公式に表明されていたことになります。

二重橋の向こうの皇居(西の丸)

四代将軍となった後、政務を老中らに任せ、決済を迫られると「左様せい」と決裁していたことから「左様せい様」という異名が付けられます。側室二名が懐妊するも、死産・流産となり、後継を残すことはできませんでした。延宝八年(1680)に享年四十で死去。

長松(お夏の方):次男(三男の可能性も) 正保元年(1644年)生まれ 天樹院(千姫)の養子となります。慶安四年(1651)4月に甲府藩15万石に封じられますが、甲府の拝領地に赴くことなく、江戸に住み、甲府宰相と呼ばれ、承応二年(1653)
に綱重を名乗ります。寛文二年(1662)に側室 保良子 との間に男子をもうけますが、良子は、養母天樹院の女中、「松坂局」に仕えていたという身分でした。綱重は家綱に先立ち延宝六年(1678)にこの世を去ります。

亀松(お玉の方、おまさの方とも):三男(次男の説あり) 正保二年(1645)生まれ(寛永二十年=1643説あり 正保四年(1647)死亡

徳松(お玉の方):四男 正保三年(1646)生まれ。兄綱重と同時に15万石を拝領、また同じタイミングで綱吉を名乗ります。

鶴松(お里佐の方):正保四年(1647)生まれ。慶安元年(1648)死亡。

後継の四代将軍はすんなり決まったものの、四代家綱に継嗣がなかったことから、その後の後継には暗い影響を及ぼします。それについては次回で。