おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

迷えるツツジ4

ツツジを贈ったのが、兄綱重の時代だったとすると、儒学を叩きこまれた綱吉が、兄への尊敬の情を表して贈ったものとも思えますし、綱豊だったとすると、将軍継嗣のライバルへの懐柔策だったのかも、などど想像してしまいます。

ちなみに、綱重の死因は酒害説が一般的ですが、四代将軍家綱の大老酒井忠清(大きな権勢を持ち、「下馬将軍」とも呼ばれました)との対立から自殺したとか、毒殺されたという説もあるようです。

さて、五代将軍となった綱吉にも跡継ぎがなく、後継者問題が持ち上がります。一人は甥の綱豊、もう一人は娘(鶴姫)婿にあたる紀州藩主、徳川綱教(つなのり)でした。

結果として、家光の孫にあたる綱豊が継嗣となり、宝永元年(1704)「家宣」と改名、綱吉の養子となりました。家宣(綱豊)が将軍後継者になったことで、甲州徳川家は絶家となり、家臣たちは幕臣となりました。

藩が無くなり、根津にあった上屋敷も幕府に献納されます。そして宝永三年(1706)その地に新社殿が造営されたのが現在の根津神社、というわけです。

根津神社社殿と銅灯篭

現在は「根津神社」と呼ばれますが、当時は「根津権現」「根津の権現様」というのが呼び名でした。「権現」とは「仏様が日本の神の姿となって現れた」とする神仏習合の考え方です。

社殿や門などをよく見ると、ところどころ「卍」の文字があり、神仏習合が現われています。

社殿の破風部分アップ 神社ですが「卍」の文字が

明治期に入り、神仏分離令が出たことで、一時期「権現」の名称を使うことが禁止されたことで、「根津神社」の名称が一般的な呼び名となりました。

また、この社殿は、「天下普請」といい、全国の諸大名に命じて作らせたものです。

当時の建築が幕末や太平洋戦争の戦火を逃れて現在に残っており、社殿・楼門・唐門等の全七棟は国の重要文化財に指定されています。

さて、根津神社境内社には、社殿造営前からこの地に祀られていた神社が存在しますが、その話は次回に。