おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

ペン(文)は剣(武)よりも綱吉

将軍になって、大老酒井忠清に辞任を命じた綱吉ですが、忠清の行った「越後騒動」に関する裁定をやり直ししています。「越後騒動」は越後高田藩で、「筆頭家老」側とその反対派の間で起こったお家騒動です。

ここではその騒動の詳細は延べませんが、大老酒井忠清は前者の言い分をほぼ認め、反対派に厳しい処分を下していました。反対派から再審が願いだされたことから、綱吉はそれを許可し、更には自らがその裁定を行います。前の裁定を覆し、筆頭家老派を厳しく処分するだけではありません。反対派の主張は認めながらも喧嘩両成敗で厳しく処断し、更には高田藩の領地没収を命じました。

上野寛永寺 芝増上寺と共に、代々の徳川将軍が祀られています

四代将軍家綱が幕閣に政治を任せきりにしたことにより、将軍の権威が低下していたところに、綱吉のこの行動は大きなインパクトを与えました。彼の政治哲学は「儒学」を根本に据えることにありました。江戸幕府が始まって半世紀以上が経ち、これまでの「武断政治」から「文治政治」への転換を推し進めていきます。ドラマ「大奥」でも山本耕史さん演じる右衛門佐(うえもんのすけ)が儒学の講義(孟子の一節が、ドラマの中でも生かされていました)を行なうシーンがありました。実際に、儒学者林鳳岡を召し出しては経書の討論を行っただけでなく、自らが幕閣に対して儒学の講義をしたという儒学者顔負けの一面もありました。

綱吉がこれほど儒学を大事にしたのは、父家光が彼に対し儒学を叩きこんだことにあるとされています。家光は継嗣家綱の体制を盤石にするためにも、序列を重んじ、兄を軽んじることの無いよう刷り込みを行ったのでしょうか。

さて、綱吉を語る際、母親桂昌院について触れないわけにはいきません。それについては次回で。