おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

ペン(文)は剣(武)よりも綱吉2

将軍綱吉の母、桂昌院ですが、ドラマ「大奥」では、側室(お玉)時代を奥智哉さんが、晩年を竜雷太さんが演じました。そのギャップに「同一人物?」と感じられた方も多いのではないでしょうか。しかし、若年時代に起こした罪に晩年になって苦しめられる姿と、綱吉の血筋を将軍家に残したいとの執念など、お二人ともそれぞれの時代をうまく演じられていたと思います。

桂昌院江戸城内に創建した福寿神  後に神田須田町柳森神社内に移されました

綱吉の儒学好きは、母親の桂昌院が今でいう「教育ママ」であったことに由来しているようです。家光から「徳松は生まれついて聡明であるので、学問に重きを置いて育てるよう」言われたことから、それを守って綱吉にハッパをかけ、マザコンの気のあった綱吉もそれに応じる形で儒学に打ち込みました。

綱吉はまだ舘林藩主であった寛文三年(1663)に左大臣鷹司教平に娘信子との縁組が持ち上がり、翌年婚礼がとり行われました。ドラマではあまり仲の良くない夫婦として描かれていましたが、夫婦で能鑑賞や祭礼見物に出かけているので、実際にはそれなりに仲の良い夫婦でした。ただし、信子と桂昌院の仲は良くなかったようです。

お夏の方といい鷹司信子といい、どうも桂昌院は自分と同じ京都の出身の女性との折り合いが悪いようです。桂昌院=お玉の方の出自については畳屋の娘、八百屋の娘等、身分が低かったという噂もあり、それが真実だとすればそのコンプレックスが敵愾心に変化したのではないかとも考えたくなります。

柳森神社 秋葉原と岩本町の中間あたりにあります

実際、桂昌院が自身の部屋子である「伝」(後の「お伝の方」)を将軍となる前の綱吉に側室として差出し(与え)ました。伝の父親は黒鍬(土木作業を行なう下級武士)とも伝わる人物で、桂昌院にとっては身分的なコンプレックスを感じなくて済む存在だったと考えれば腑に落ちるところです。ドラマでは徳重聡さんが演じていましたが、綱吉と桂昌院の存在感に隠れ、あまり印象に残っていません。(これは原作も同じ)

お伝は綱吉との間に延宝五年(1677)に鶴姫、同七年(1679)に徳松と、一男一女をもうけています。この男の子が健康に育っていれば、歴史は全く違ったものになっていたのでしょうが・・・この続きは次回で。