おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

砲術は爆発だ~ 江川太郎左衛門5

この当時、英龍は「尚歯会」(しょうしかい)というグループと交遊を持ちます。この会は表向き「歯を大切にする」という意味の「尚歯」を会の名前に使い、尚歯会と名乗って高齢の隠居者・知恵者やそれを慕う者の集まりとしていました。

実際には医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたって論議する会合でした。

そのメンバーは高野長英、小関三英などの蘭学者三河国田原藩家老の渡辺崋山、旗本の川路聖謨、同じく旗本で儒学者の羽倉簡堂などで、英龍は川路・羽倉の線から尚歯会と接点を持ったようです。

蘭学者 高野長英シーボルトの弟子、当時平河天満宮の近くに住んでいました

天保九年(1838)12月、英龍は江戸湾防備強化のため、測量を含む巡視の副使に任ぜられます。正史は目付の鳥居耀蔵で、保守的で蘭学嫌いの鳥居はこの巡視中に英龍の隊の測量士解雇を求めるなど、さまざまな妨害工作を行っています。が、鳥居の隊よりも英龍の隊の報告書の出来がよく、老中水野忠邦より鳥居は𠮟責を受けています。

駒込吉祥寺にある鳥居耀蔵の墓 「マムシの耀蔵」「妖怪」と怖れ嫌われました

これにより、鳥居は更に蘭学者や尚歯会を目の敵にし、「蛮社の獄」と呼ばれる言論弾圧事件を起こして高野長英らを抹殺するのですが、この事件に触れると話がとてつもなく長くなるので、ここでは割愛します。

英龍は海岸防備のための大砲の装備が旧式で、砲術も古来から伝わる和流砲術のままであることに大きな不安を感じ、新式の砲術習得を望んでいました。そうした時期、渡辺崋山から長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆(たかしま しゅうはん)の名前を知らされます。

長崎で育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知り、出島のオランダ人からオランダ語や洋式の砲術を学び、更には私費で銃器等を買い揃えて研究し、天保六年(1835)に「高島流砲術」を完成させた人物でした。

英龍が秋帆に砲術を学ぼう、と考えたのは至極当然のことと言えるでしょう。やっと砲術が出てきたところで次回以降に続きます。