延宝八年(1680)に将軍となった綱吉、先に述べたように大老であった酒井忠清を辞職させ(実質的には解任・罷免)、老中であった堀田正俊を後任の大老に就けました。正俊の養母は春日局、妻は春日局のひ孫にあたります。酒井忠清が宮家の将軍を推したのに対し、堀田正俊は綱吉擁立に動いたこともあり、この人事はその労に報いる形で行われたのでしょうか。
綱吉の治世の前半は「天和の治」と呼ばれ善政として後世に評価されるものでしたが、正俊は綱吉の側用人牧野成貞とともに綱吉を支えました。
戦国の殺伐とした風潮を嫌い、儒学を重んじた政治は、いわば正論
よくいわれる悪政の例として「生類憐れみの令」
が、正俊はこの年8月28日に江戸城中で、若年寄稲葉正休により刺殺され、加害者の正休もその場に同席していた他の老中たちに滅多斬りにされ、殺されてしまいます。ちょうど綱吉との対立が目立ち始めた時期だけに、この事件には綱吉が関与しているのではないかともささやかれています。
目の上のタンコブの存在がいなくなり、己に意見する者のいなくなった綱吉の暴走が目立ち始めます。それについては次回以降に。