おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

ペン(文)は剣(武)よりも綱吉3

延宝八年(1680)に将軍となった綱吉、先に述べたように大老であった酒井忠清を辞職させ(実質的には解任・罷免)、老中であった堀田正俊を後任の大老に就けました。正俊の養母は春日局、妻は春日局のひ孫にあたります。酒井忠清が宮家の将軍を推したのに対し、堀田正俊は綱吉擁立に動いたこともあり、この人事はその労に報いる形で行われたのでしょうか。

堀田正俊の墓のある 千葉・佐倉の甚大寺

綱吉の治世の前半は「天和の治」と呼ばれ善政として後世に評価されるものでしたが、正俊は綱吉の側用人牧野成貞とともに綱吉を支えました。

戦国の殺伐とした風潮を嫌い、儒学を重んじた政治は、いわば正論・王道を進もうとするもので、最初のうちは歓迎されます。が、天和三年(1680)に綱吉の嫡子亀松が5歳で夭逝した辺りから、理想と現実の乖離が大きくなり始め、最高権力者たる将軍の暴走が始まります。

よくいわれる悪政の例として「生類憐れみの令」が挙げられます。「〜の令」というとまとまった法令が出されたようなイメージですが、いくつものお触れや幕府からの通達なども総称したもので、体系的な法令があるわけではありません。

徳松が亡くなる直前に出されたのは、町の辻番人に「道路に倒れた病人や酔っぱらいを介抱するよう」というものでした。現在の道徳感覚から考えても極めて常識的なもので、違和感を感じるような内容ではありません。続いて翌年の貞享元年(1681)には、会津藩が恒例として行っていた「鷹の献上」を禁じる旨の通達を出しました。家康以降代々の将軍が好んで行った「鷹狩り」を禁じる方針にも進んでいったようです。このあたりから老中堀田正俊は綱吉この方針には反対の立場を取り始めます。

甚大寺 堀田正俊・正睦・正倫 の墓

が、正俊はこの年8月28日に江戸城中で、若年寄稲葉正休により刺殺され、加害者の正休もその場に同席していた他の老中たちに滅多斬りにされ、殺されてしまいます。ちょうど綱吉との対立が目立ち始めた時期だけに、この事件には綱吉が関与しているのではないかともささやかれています。

目の上のタンコブの存在がいなくなり、己に意見する者のいなくなった綱吉の暴走が目立ち始めます。それについては次回以降に。