おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

末期のミス2

ドラマ「大奥」では、綱吉がうなされて「佐」と右衛門佐を呼ぶ枕元に柳沢吉保が侍し、綱吉と言葉を交わします。「欲得の無い慈しみを教えてくれた、佐だけがのう」と言う綱吉に、「そうですか」と悲しみに満ちた表情を浮かべた吉保は、水に濡らした手拭いを綱吉の顔に広げ、抱きしめたまま窒息死させます。原作でもそのところは同じなのですが、その前に御台所が綱吉を殺めようとして吉保に止められるシーンがあるのですが、ドラマでは省略されています。

皇居二ノ丸庭園 今の時期はつつじが咲き揃います

伝承を取り入れたシーンですが、それまでに御台所の心理描写を描いていないため、ドラマとして省略が正解という感じがしました。吉保の哀しげな表情に、佐だけでなく、私も欲得なく愛情をもってお仕えしていたのに・・という気持ちが現れていました。

さて、御台所が綱吉を殺めた、と憶測されたのは、綱吉が後継を綱豊(家宣)以外にしようとしていたから。綱吉の意中の人物が、吉保の長男「吉里(よしさと)」でした。

家臣の息子を何故に?というところですが、吉保の側室で吉里の母にあたる「染子」は綱吉の愛人であり、吉里は綱吉の「ご落胤」であったとも伝わります。家柄として不釣り合いな「松平姓」を許されたことや、元服の際の厚遇などがその理由として挙げられているのですが・・真相は藪の中です。

御台所鷹司信子にとってみれば、側室の子ならいざ知らず、家来の側室の子が将軍になるようなことは決して許されるものではない、ということで本丸の次の間にあった「宇治の間」で綱吉を説得しようとしました。しかし綱吉がその説得に応じないため、持っていた懐剣で綱吉を刺し殺し、自らも命を絶った、というのです。

そのため、信子の墓には罪人と同様に金網がかけられていたとか、「宇治の間」は長らく「開かずの間」とされていた、などという伝承も残っています。

綱吉自身が、側用人の牧野成貞・柳沢吉保の邸宅に足しげく通ったことや、それぞれの妻(成貞の場合は娘も)に手を出していた、という醜聞が「犬将軍」の蔑称とともに伝わり、そのイメージを極端に悪くしています。綱吉も自分の死がこんなふうに伝わっているのには、あの世で苦笑いをしているのではないでしょうか。

ドラマ「大奥」はこのあと吉宗の時代に進むのですが、綱吉の時代はここまで。次回からは次代の将軍家宣の時代のお話を。