おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

犬々、続々

幕府が新たに「犬小屋」を四谷・大久保・中野の地に建設したのは元禄八年(1695)のこと。前回ご紹介したように、喜多見の犬小屋は病気の犬を収容するとともに、子犬を保護する目的で設けられました。それに対し、新設された犬小屋には、主に飼い主のいない無主犬=野犬が収容されました。

さて、3月に千駄ヶ谷村に建設が予定され、用地として屋敷を召し上げられたのが、柳沢吉保(当時は保明)の屋敷地でした。御用地として1万8928坪7合が4月5日に引き渡されたのですが、吉保には代替地として駒込村の土地4万7000坪が与えられます。

吉保はこの時代替地として拝領した土地の一部に、七年の歳月をかけ「六義園」を作り上げました。

六義園の春といえば 枝垂桜

六義園」の話はさておき、千駄ヶ谷村(四谷)と同時期に、大久保村にも約2万5000坪の規模の犬小屋建設を開始しました。犬小屋は2ヶ月ほどの突貫工事で完成しましたが、小屋を作るばかりでなく、管理する人員も必要となりました。「犬小屋支配」となったのは「元・鷹匠」です。「元」と書いたのは、この二年前に綱吉が「鷹狩り」を禁止したことから、鷹の世話や訓練をする仕事がなくなり、今度は犬小屋の管理を任されることになったのでした。

四谷の犬小屋には江戸中の牝犬が収容され、子犬の繁殖を防いだそうですが、この犬小屋は2年ほど稼働した後廃止され、収容された犬たちは次に紹介する中野の犬小屋に移されていきました。

さて、中野の犬小屋も四谷・大久保が稼働を始めた元禄八年(1695)の10月に建設が始まりましたが、当初18万坪弱だった用地は、年々増築され、最終的には犬小屋全体の御用地は29万7652坪にも達しました。「30万坪とはどれくらい」で検索すると、「東京ドーム建物の21個分」とありました。

中野区役所の南側に、5匹の犬を配したブロンズ像が置かれていて、横に「かこい」として案内が書かれています。

中野区役所前のブロンズ彫刻「かこい」

案内板によれば、この辺りに中野の犬小屋(犬屋敷)が設けられており、その歴史を伝えるために作られたものとのこと。

「かこい」に関する案内文

犬小屋は中野のものに一本化され、11月の稼働開始後、日ならずして10万匹以上の犬がここに収容されたといいます。犬小屋が設けられた理由は、江戸の町中に犬が増えすぎて発生した問題を解決するためでしたが、その問題とは・・次回で。