おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

象する吉宗2

翌年享保十四年(1729)の3月13日、雄の象一頭とその一行は長崎を出発して江戸に向かいました。現在なら長崎空港羽田空港は飛行機で2時間足らず、JRの乗継ぎだと長崎駅~東京駅が7時間弱で到着できますが、交通手段のない当時のこと、九州と本州の間、関門海峡と大河川以外はすべて陸路を象自らの脚で歩かせました。ちなみにその距離は370里(1480km)、象が一日に歩ける距離は3~5里(12~20km)とゆっくりしたもので、この大移動は74日かかって行われました。

門前に一対の象がいる文京区の瑞泰寺(ブログの記事とは関係ありません)

出発に先立って、象が通る街道筋の諸藩に対して幕府から触書が出されています。

それによると、①象が通行する際、見物人は決して大きな物音を立てたり、寺の鐘を鳴らしてはいけない ②犬や猫はつないでおき、牛馬も街道を往来させてはいけない という、象を驚かせないようなお達しの他、③道路を整備して小石などを除去しておくことや、橋を通る箇所では補強をしておくことなどを命じています。

一行は長崎を出て11日目に小倉城下に入り、藩主が見物した記録が残されています。翌日、最初は小倉港から船に乗せる予定でしたが断念、九州最北端の大里海岸から船で海峡を渡りました。

3月25日に本州の地を踏んだ象が最初に泣きを入れた(?)のが、4月1日、周防国小郡宿でのこと。足を痛めて歩行困難となりました。管轄する徳山藩ではすぐさま象小屋を設営して宿泊地変更に対応しています。

その後も象は街道を東へと進んでいき、通過した藩の藩主たちが象を見物したという記録が残されています。

4月18日、兵庫県明石を通行した象は尼崎藩領を通り同日に兵庫湊(今の神戸港)に宿泊、翌日は尼崎近くの別所村に宿泊しました。

尼崎城址石碑(尼崎市立成良中学校琴城分校前)

この尼崎の地から大阪・伏見・京都へと進んでいきますが、それは次回で。