おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

そうだ、ライト行こう6

話は旧山邑邸に戻ります。帝国ホテルライト館が一部明治村に残されたとはいえ、大部分が取り壊され、新たな本館が建てられたように、この邸宅も一時は取り壊されそうになる危機がありました。

4階食堂の暖炉 他の部屋の暖炉とデザインがそれぞれ異なります

昭和10年(1935)に人手に渡り、別荘や事務所として使用されていました、戦後は一時的に進駐軍の社交場として用いられた時期もあります。昭和二十二年(1947)には、現在の持主である(株)淀川製鋼所の手に移り、同社ではこの建物を社長住宅、貸家、社員寮などとして使用していました。そういえば同じライト設計の林愛作邸も電通保有となってから、社員寮になっていた時期がありました。

この邸宅に危機が訪れたのは、昭和四十六年(1971)秋のこと。この建物を取り壊して、その跡地にマンションを建築する、というのです。ライト館が一部保存されながらも取り壊されてから3年半が経っていました。

四階バルコニーから食堂方面 装飾彫刻の幾何学模様が印象的です

それを聞いた日本建築学会の建築史研究関係者の有志は、「旧山邑邸保存に関する特別委員会」を立ち上げ、保存運動をおこします。

同じライトの建築した建物とはいっても、帝国ホテルのように世界に名の知られているわけでもなく、その価値を知らせる小冊子を作製・配布したり、地元でシンポジウムを開くなど、地道な活動を進めていきました。

すると、昭和四十八年(1974)春、淀川製鋼所から「旧山邑邸の価値について話を伺いたい」との話がやってきます。ライト研究の第一人者、谷川正己さんは一人でこの会談に臨み、社長や総務部長・開発部長、広報課長にこの建築の価値を説明しました。

バルコニーから芦屋川駅方面を臨む

30分の説明ののち、井上利行社長(当時)からマンション建設計画撤回の返事と、文化財指定を願い出るための推薦文を依頼されます。名建築が守られた瞬間でした。

同年、山邑邸は国の重要文化財の指定を受けます。大正時代以降の建築物として、また鉄筋コンクリート建造物として初めての重文指定でした。指定を契機に「ヨドコウ迎賓館」と名称を変え、神戸大震災後の修復を経て今に至ります。

2019年7月、フランク・ロイド・ライトの米国内の8つの建築作品が「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」として世界遺産に登録されることが決定しましたが、その際、この旧山邑邸ヨドコウ迎賓館」も将来の追加登録候補に挙げられました。

つまりは、最も世界遺産に近い日本の建築物、といってもいいかもしれません。旧山邑邸のお話はここまで。次回からは自由学園明日館を取り上げます。