おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新(あらた)なるステージ(舞台)4

大正デモクラシーのリベラルな風潮を追い風に、自由学園は規模を拡大していきます。

昭和二年(1927)初等部を開設

昭和九年(1934)校舎を東京府北多摩郡久留米町(現:東久留米市)に移転

昭和十年(1935)男子部を開設

が、日本が国家主義的な方向に進むとともに、自由学園の学校教育への統制圧力が強まっていきます。校名につけられた「自由」について、文部省から度々「自主的な変更」を求められたことが戦後明らかにされています。

明日館で使用された椅子(こちらは遠藤新デザイン)

羽仁吉一は、「自発的には決して名を変えません」と言い切り、もと子も「どうしても校名を変更せよといわれるのでしたら、私は学校を閉鎖します」と夫婦で明確な拒絶の意思表示を示しました。

それにより校名の変更の危機は免れたものの、勤労動員等の協力は飲まざるを得なくなり、また十周年に描かれた壁画を塗りつぶす、という選択に至りました。

戦争が激しくなり、東京も空襲を受けています。実際に明日館を訪れたおじいさんから、「空襲で池袋の周辺は全部燃えてしまっただろう!」と問われたことがあったそうです。

東京大空襲により池袋周辺は焼け野原に・・

明日館に展示された、池袋周辺の焼失地区の地図を見ると、立教大学および豊島師範学校の半分、それと明日館の周辺だけが焼失を免れています。展示に書かれた解説によると、①学園の真北にあった鉄道教習所の広いグラウンド(現在のホテルメトロポリタン)が火除地となり類焼を防いだこと、②この周辺の隣組の人たちが疎開せずに残っていて、懸命に消火活動をしてくれた、という点を理由に挙げています。

それにしても、この貴重な名建築が空襲で焼けずに残ったのは「奇跡的」であったことに変わりはありません。

戦争での焼失を免れた明日館ですが、昭和末期から平成にかけ、明日館は「老朽化」という新たな問題に直面します。その話は次回に。