おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

もしも明日が羽仁ならば4

他に、天井や内装の意匠はライト自身の住宅兼スタジオのタリアセンのものを流用しながら、内壁は安い合板を使ってペンキを塗ってしまう、という工夫も行ったことを「帝国ホテル建築物語では紹介しています。

そして「大谷石」については次のように書いています。

建物の足元には大谷石を用いるが、帝国ホテルの現場で失敗した石を、四角く整え直して、安く譲らせるという。

タダで流用したとは書かれていませんが、失敗して使わない石は本来廃棄するだけですから、相当安く譲ったのではないでしょうか。自由学園建設の「家計簿」いや「帳簿」が残っているならば見てみたいものです。

大正十年(1921)4月15日、最初の女生徒26名を迎えての入学式が執り行われました。

入学式が行われた教室

といっても、工事が始まったのが3月ですから、この時点ではまだ建物は完成していません。そのため、まだ工事中の足場の丸太を外し、壁は漆喰も塗られていない荒壁のまま。教室には黒板もまだ設置されていません。そんな中で新入生たちは入学式に出席したのでした。

大正十年の4月15日に執り行われた入学式の様子

これでちゃんとした授業がうけられるんだろうか、と不安に思ったか、何か格好いい学び舎になりそうだと大きく希望を膨らませたか、彼女たちの気持ちがどういうものだったか気になるところです。

この建物(中央棟と呼んでいるようです)は、授業を並行させながら工事を進め、設計から約一年後に完成した、と学園のホームページに書かれています。

この校舎については新聞でも紹介され、記事になったようです。

【可愛い新校舎】

麦畑に続いた雑司ヶ谷の藪の中に羽仁もと子女史の自由学園新校舎が出来上がった。そこに学ぶ少女の心をそのまま象徴化したような可愛い建築だ。(中略)枝折(しおり)戸を想わせる素朴な扉、空の藍色に続く銅板屋根の緑、土に立てる大谷石の鼠色、窓枠や柱の飾気なき白木とその木組の美しい調和、講堂と云った處で此処のは家庭の愛に抱擁さるる客間其ままの気持ちで出来てる(後略)

正面ホールの椅子 窓と同じホームベース形の幾何学模様が印象的

こうして学園は開校しました。しかしここから二十年足らずの間に、大正デモクラシーの気風は失われ、日本には軍国主義が蔓延、自由学園を取り巻く環境も大きく変わってしまいます。次回は戦争の時代の自由学園を紹介します。