おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新(あらた)なるステージ(舞台)5

以前にご紹介した旧山邑邸(現ヨドコウ迎賓館)も、昭和四十九年(1974)に重要文化財に指定された約十年後、昭和六十年(1985)から約3年3ヶ月最初の修理工事を行っています。(もう一度、阪神大震災ののち、修理工事が行われました)

その時に最も腐朽・破損がひどかったのが、応接室や和室に設けられた高窓の周辺部分でした。

旧山邑邸応接室 この高窓、風を通す役割を果たしますが・・・

現在ではこの窓にはガラスがはめられていますが、当時はガラスはなく、内側の扉を開けると風が部屋を通る仕組みでした。が、日本の降雨量はライトが想像したよりもずっと多量だったため、扉を閉めても雨が入ってきてしまい建物の痛みを速めたのかも知れません。こうした点から、ライトの建築に日本の気象(多雨多湿)への配慮が不足していると指摘されることもあるようです。

芦屋の素封家がお金をかけた邸宅が完成後60年ほどでこういう状態でしたから、明日館のように建築費を抑えながらの建築の場合はより痛みは激しかったことでしょう。「建物の中で傘をさすほど」老朽化がひどかった、と言われています。

今でこそ美しく保存されていますが この天井からも雨漏りが・・

昭和六十二年(1987)、日経アーキテクチャーという建築雑誌に、次のような見出しの記事が掲載されました。

『残したいが資金なし、「その日」が迫ったライトの名作』

当時自由学園内の検討委員会では、この建物を「積極的に保存」しよう、という方向性は出ませんでした。「創立当時の校舎」「F・L・ライトによる貴重な建築物」という認識はもちろんありました。が、私立学校の置かれた厳しい経営の下にあっては、一方で「貴重な経営資源」という面も持っており、資金調達のための売却や、収益性の高い建物を建てて賃貸物件とする意見が多く出されました。

建築学会から推奨された「文化財指定を受けての保存」という選択肢も、当時はあまり考慮されていませんでした。その訳については次回に。