昭和二十四年(1949)4月に、関西演芸協会が発足します。漫才師や浪曲師も含めた芸人全体の親睦団体ですが、そこに参加した落語家笑福亭松鶴(五代)、桂春團治(二代)を初めとして13名。後の「上方落語四天王」もその中に名を連ねています。
しかし、協会員の噺家のうち、昭和二十五年(1950)~二十八年(1953)の間に、
笑福亭松鶴(五代目):昭和二十五年
立花屋花橘(たちばなや かきつ 二代)/ 桂米團治(四代):昭和二十六年
桂春團治(二代):昭和二十八年
と、人気のベテラン噺家が相次いでこの世を去り、春團治が没した際には作家谷崎潤一郎が「上方落語は滅んだ」と発した談話が新聞で報道されました。
ほぼ同じ時期の昭和二十八年(1953)3月に、後の「四天王」他の若手落語家たちは「宝塚若手落語会」を発足させました。この発足には阪急・東宝の創業者、小林一三の後援もありましたが、やはり若手たちの危機感があったのだと思います。
若手落語家たちは、戦前に活躍した古老の噺家たちにも協力を仰ぎ、同年5月に「大阪落語倶楽部」が発足、古老・若手を含めた36名が名を連ねました。この会では月に一度、心斎橋の南方の畳屋長にあった料亭「暫」を会場に落語会を開催しています。
一時期落語会を離れていた桂染丸(三代)が帰阪、復帰したのもこの時期で、この染丸を初代会長として、昭和三十二年(1957)4月、「上方落語協会」が結成されました。結成当時の会員は18名と名誉会員として、過去協力を仰いだ古老の噺家5名で構成されていました。上方落語の苦闘が続きます。