おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

九月に花咲く悲願噺 2

更新した時間にはすでに日が変わっていると思いますが、この稿を書いている9月15日は、天満繁昌亭のオープンした日で、今年で17周年になります。繁昌亭の前に建てられた石碑にこの寄席が長年の悲願であったことが書かれています。

上方落語の歴史と「繁昌亭」の成り立ちが書かれています

空襲で多くの寄席が消失してしまったことは前回ご紹介しましたが、戦災で焼け出された芸人さんたちを、演芸斡旋事務所が世話をした安い家賃の住居を提供して住まわせた一角がありました。新世界(通天閣の界隈です)の南側にあった「てんのじ村」と呼ばれる地域で、1950年代の最盛期には300人以上の芸人さんが住んでいたといいます。

ミヤコ蝶々さんもここで生活しており、通りに寝そべってヒロポンを打っていた、というのは有名な話だそうです。(今でこそ「覚せい剤」として取締の対象となっていますが、元々疲労回復剤として製造され、戦後しばらくは法律では禁じられていませんでした)

演芸斡旋事務所とはその名の通り、演芸場に芸人を斡旋して斡旋料を受取る、芸能プロダクションの原型のようなものです。この近くには焼け残った演芸場「天王寺館」があったほか、戦後まもなく復活したミナミの演芸場にも近かったため、事務所にとっても芸人さんたちにとっても職住近接の便利な地域でした。

阪神高速環状線阿倍野入口のすぐ横に「上方演芸発祥の地 てんのじ村記念碑」が建てられています。

新世界にある「てんのじ村記念碑」金網のフェンスで囲まれています

ただ、ここの住人たちの顔ぶれを見ると、圧倒的に漫才師が多く、この時代の関西演芸の力関係を見る気がします。落語家=噺家が少ないのは、寄席はあらかた空襲で焼けてしまった上に、吉本興業が演芸から撤退(後に改めて参入)し、傘下の寄席は映画館へと姿を替え、残った小屋も漫才が中心…噺家の出番がどんどん奪われ減っていったからでしょう。

それでも残った噺家たちは芸を残すために苦心惨憺していきます。その話は次回で。