おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

九月に花咲く悲願噺 4

昭和三十二年(1957)4月の「上方落語協会」結成後、道頓堀にあった文楽座で協会主催の「土曜落語会」が始まり、その後「神戸寄席」「京都市民寄席」といった京阪神の都市での落語の定期公演もスタートしました。

落語協会結成とその前後の出来事(ワッハ上方

更には、翌昭和三十三年(1958)5月には道頓堀「角座」が演芸場としてオープンします。戦前には芝居小屋としての「角座」がありましたが、戦争で焼失し戦後松竹が洋画専門映画館「SY角座」となっていました。その映画館を演芸場に改装したのです。その後同年11月には「千日前劇場」、翌年4月に「うめだ花月」がオープンしました。

花月」の名でわかる通り、吉本興業がこの時に演芸に再参入したのです。吉本興業は昭和三十七年(1962)7月には「京都花月」、翌三十八年(1963)7月には「なんば花月」をオープンさせています。

昭和三十八年のうめだ花月のポスター(ワッハ上方

演芸場は増えましたが、上のポスターを見てもわかる通り、喜劇と漫才が主となっていて、落語の演者は1~2組しかありません。昭和三十五年(1960)1月に発行された「上方落語協会会員名簿」に掲載された人数は35名、うち6名は三味線や鉦、太鼓や笛を担当する「お囃子さん」、会長・幹事・顧問を除いた会員は25名とまだまだ心細いものでした。が幹部等に後の四天王が、会員に四天王の弟子たちが名を連ね、次世代の息吹を感じさせる時期となっていました。

その後、ホールでの一門会、独演会などが増え、上方落語の基盤は広がっていきますが、いまだ定席小屋はできません。昭和四十六年(1971)、当時の落語協会会長、笑福亭松鶴(六代目)が定例の寄席を開いたのは意外な場所でした。この続きは次回で。

文楽座で始ま