おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

おそれ大奥ことながら2

ドラマ「大奥」では、この白河松平家への養子縁組の話がすでに流れかけていたところに、仲間由紀恵さん演じる徳川(一橋)治済(はるさだ)が「ご政道批判を行なう定信をこのままにしてよいのでしょうか」と老中たちを焚き付けて実現を強く後押しする場面がありました。

松平定信が藩主となった白河城

その後、将軍家治からの命を受けた定信は、田安家の意に反したこの縁組を意次の差し金だと「田沼め〜」と鬼のような形相で宙を睨んでいます。

前回ご紹介したように養子縁組が決まったのが安永三年(1774)3月のことでしたが、そのまま田安家での居住する日々が続いていました。まだ17歳で元服も済ませていません。ですからまだ定信ではなく、幼名の賢丸のまま田安邸に住んでいた訳です。

同じ年の8月に兄の治察が若くしてこの世を去り、田安家は当主を失っただけでなく、後継もいない状態になってしまいます。そのため田安家ではほんの数ヶ月前に決まった養子縁組を解消し、定信(賢丸)に跡目を相続させたいと申出ています。定信が残した自伝「宇下人言」には、兄の臨終の前後に定信が田安家を相続する方向で話がほぼ決まっていたにも関わらず、田沼らがその約束を破った、というような内容が書かれていて、定信自身はこの縁組の成立は田沼の差し金と信じていたようです。

板橋にある「日曜寺」の扁額 田安家の祈願所で額は定信の筆によるものです

養子縁組翌年に養父定邦は中風(脳卒中)を発症して体調を崩してしまいます。翌安永五年(1776)3月は初めて白河の地に赴き、そこで元服して「定信」を名乗り、定邦の娘峯姫を娶り、正式に婿養子となりました。が、この峯姫も5年後の天明元年(1781)にこの世を去ります。
天明三年(1783)に定邦は隠居し、定信が白河藩第3代藩主となります。この年は定信が名君として大きく名を挙げる出来事の起こった年なのですが、その話は次回に。