おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

不修身斉家痴国弊天下

大塩の乱の起きた天保八年(1837)4月に徳川家斉は将軍の座を実子家慶に譲りますが、その後も「大御所」として、その死までの約4年間実権を握り続けました。歴史上「大御所時代」とは、この4年ではなく将軍在位51年と併せた期間を指します。

文化・文政期を含め江戸では享楽的な文化が栄えました

この時期、町人文化の最盛期といわれ、北斎・広重の浮世絵や、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」曲亭(滝沢)馬琴の「南総里見八犬伝」などの滑稽本・読本などはこの時代に生み出されました。

葛飾北斎像(元浅草誓教寺:北斎の墓があります)

家斉が政治に関心を示さず、水野忠成(みずの ただあきら)が老中首座となった文化十四年(1817)以降は寛政の改革からの緊縮財政から、緊張が緩み賄賂政治・放漫財政に移り、政治にも厳しさが薄れたことが原因の一つといえます。

かつて文化の中心が上方であったのに対し、江戸に中心が移ってきたこともこの時代の特徴です。

文化が栄えたというと好景気を連想しますが、ご紹介したように飢饉⇒一揆・打ちこわしの発生等もあった上に、江戸時代後半は慢性的に不景気が続いた時代で、世の中には「三十八文見世」が人気となりました。「見世」は「店」と考えればよく、縁日や盛り場で「三十八文均一で物を売る店」、すなわち現代の100円ショップやワンコインショップのはしりとなるものです。

家斉の死は天保十二年(1837)閏1月7日に訪れました。死因は晩年の症状から「腹膜炎」と推測されていますが定かではありません。一説によるとその最期は症状が出たまま放置されたと伝えられ、主治医(侍医長)の吉田成方院(よしだ せいほういん)は解任・隠居・謹慎に加え、屋敷を取り上げられるという重い処分を受けています。

すでに治世の末期から様々な矛盾が噴出していた大御所時代ですが、その死後幕府の凋落はつづいていくのでした。あともう少しこの時代にお付き合いいただきます。