おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

あっち行け、そっち行け、鴻池4

大坂今池の鴻池本宅のあった場所は、現在「大阪美術倶楽部」となっていますが、そのHPで「鴻池家の歴史」が紹介されています。

それによると、

大伯父に養われた山中新六幸元は15才で元服し、その後深く考える所があり両刀を捨て、商いで身をたてようと決心し己が武士の子孫であることを堅く秘し、その名も新右衛門(HPには「新右エ門」)と改めた。 とあります。

そこで新右衛門が始めた商いというのが造り酒屋、すなわち「酒造業」でした。前回ご紹介した「発祥の地」から歩いて2,3分の所に「鴻池・清酒発祥の地」の碑が建っています。

清酒発祥の地 の碑  樽の正面に「鴻池」の文字が

横に置かれた説明文にこのように書かれています。

戦国時代の天正六年(1578)、尼子氏の家臣、山中鹿之助の長男、幸元新六が遠縁を頼ってここ鴻池村に住みつき、酒造りを始めました。最初は濁り酒を造っていましたが、慶長五年(1600)に双白澄酒(清酒)の製法を発見することができました。

双白澄酒は「もろはくすみざけ」とよみますが、澄酒とは透明な酒を指しますが、濁り酒が澄酒になったのについては、鴻池家に伝えられた話があります。

新右衛門に叱られた手代(下男とも)が、夜半に腹いせに酒樽の中にかまどの灰を投げ入れそのまま飛び出てしまいました。樽の中の酒を台無しにしてしまえ、というつもりだったのでしょう。が手代の意に反し、翌朝樽の中を確認すると濁った酒は澄んで、雑味が抜けて芳醇な名酒に変化しています。

「灰を入れると酒の澱(おり)が沈んで酒が澄む」ことを知った新右衛門は研究を重ね、清酒造りの製法を発見したというのです。これが伊丹から摂津周辺の西宮や灘に広まっていきました。

伊丹駅前の歩道橋に日本遺産認定「伊丹諸白」の文字が

「双白澄酒」の「澄酒」はこの澄んだ酒を指しますが、「双白」は一般的に「諸白」と書きます。「伊丹諸白」は伊丹の酒の代名詞ともいえる名称ですが、「諸白」については次回に。