おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

あっち行け、そっち行け、鴻池13

日本酒の作り方について8回かけてしまいましたが、始祖にあたる山中幸元の話に戻ります。彼が山陰の戦国大名尼子氏の家臣、山中鹿介(幸盛)の長男であり、尼子氏の滅亡後9歳で大叔父を頼って伊丹に流れてきたことはすでに述べました。

商いで身を立てるにあたり、「山中」の名字を捨て、地名をとって「鴻池屋」を名乗り、名前も幸元から新右衛門、あるいは新六としています。

鴻池発祥の地からほどない場所にある「鴻池神社」

「鴻池」の地名の由来は、というと、「鴻」(こう)という音と、字に「鳥」が含まれることから、「コウノトリ」が飛来する池だと思っていたのですが、そうではないようです。「鴻」にあたる鳥は「菱喰」(ヒシクイ)というマガンの一種だそうで、夏季はシベリア北部で繁殖し、冬になると中国や日本まで南下する渡り鳥です。

鴻池地区の旧地名を記載した案内板

この地区にはかつて、黒池・西池・新池・前の池・玉田池という灌漑用の池があったようですが、そこに多くの「鴻」=ヒシクイが多く飛来したので池の名になったのでしょうか。

上に挙げた池は埋め立てられて建物が建ったり、池域が狭くなってしまったりで、当時の様子はうかがえませんが、同じ伊丹市内にある「昆陽池」(こやいけ)は公園として残り、都市部には珍しい渡り鳥の飛来地として知られます。実際に冬に訪れたところ、ヒシクイかどうかは判別がつかないものの、雁のような水鳥が鷺やユリカモメと共に見られました。

冬の昆陽池 多くの渡り鳥が飛来します

また、「こう」は「国府」のことを指しているといい、摂津の国の国府大阪市天王寺区中央区にあったする説が有力)をこの地に移す計画があったため、その名残であるとも伝えられます。

いずれにせよ、この地方の名で酒屋としての商いを始めたのが、安土桃山時代の最終期、慶長年間でした。戦国時代のように商品の移送中に荷物が襲われ奪われる、というケースは激減したことでしょう。鴻池屋新右衛門は自ら工夫を重ねて生み出した酒を、遠くにまで売り出します。その話は次回で。