日本酒の作り方について8回かけてしまいましたが、始祖にあたる山中幸元の話に戻ります。彼が山陰の戦国大名尼子氏の家臣、山中鹿介(幸盛)の長男であり、尼子氏の滅亡後9歳で大叔父を頼って伊丹に流れてきたことはすでに述べました。
商いで身を立てるにあたり、「山中」の名字を捨て、地名をとって「鴻池屋」を名乗り、名前も幸元から新右衛門、あるいは新六としています。
「鴻池」の地名の由来は、というと、「鴻」(こう)という音と、字に「鳥」が含まれることから、「コウノトリ」が飛来する池だと思っていたのですが、そうではないようです。「鴻」にあたる鳥は「菱喰」(ヒシクイ)というマガンの一種だそうで、夏季はシベリア北部で繁殖し、冬になると中国や日本まで南下する渡り鳥です。
この地区にはかつて、黒池・西池・新池・前の池・玉田池という灌漑用の池があったようですが、そこに多くの「鴻」=ヒシクイが多く飛来したので池の名になったのでしょうか。
上に挙げた池は埋め立てられて建物が建ったり、池域が狭くなってしまったりで、当時の様子はうかがえませんが、同じ伊丹市内にある「昆陽池」(こやいけ)は公園として残り、都市部には珍しい渡り鳥の飛来地として知られます。実際に冬に訪れたところ、ヒシクイかどうかは判別がつかないものの、雁のような水鳥が鷺やユリカモメと共に見られました。
また、「こう」は「国府」のことを指しているといい、摂津の国の国府(大阪市天王寺区か中央区にあったする説が有力)をこの地に移す計画があったため、その名残であるとも伝えられます。
いずれにせよ、この地方の名で酒屋としての商いを始めたのが、安土桃山時代の最終期、慶長年間でした。戦国時代のように商品の移送中に荷物が襲われ奪われる、というケースは激減したことでしょう。鴻池屋新右衛門は自ら工夫を重ねて生み出した酒を、遠くにまで売り出します。その話は次回で。