おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

新田花実が咲くものだ

舟を編む」が第四話まで進みました。回を追って面白くなっていて、原作にはない岸辺みどり(ドラマの主人公:池田エライザさん)の家庭事情などもこれから描かれていくようで、先が楽しみです。言葉は生き物で変わっていくものですが、その変化にも歴史があると思うと言葉も立派な歴史なんだな、と思います。

さて、大阪の片町線(別名:学研都市線)の駅にそのものズバリの「鴻池新田」駅があります。大阪駅からだと直接は行けませんが、京橋駅で乗り換えて25分足らず、大阪駅から徒歩5,6分の北新地駅からだと乗換なしの20分で着きます。

片町線学研都市線鴻池新田駅 隣の駅も由緒ある地名です

駅の名前だけでなく、地図の町名にも「鴻池本町」(駅北側)、「中鴻池町」(南側)が見えます。ちなみに駅のある場所は「西鴻池町」、東側に「鴻池本町」「鴻池町」などの町名が残ります。

鴻池新田駅周辺の地図

「鴻池新田」というからには、鴻池家がこの場所を開発して田んぼにした、というところまでは想像できるものの、元々はどういう場所だったのでしょうか。

現在「河内平野」となっている場所にかつて「河内湖」という湖がありました。紀元前6000年までさかのぼると「河内湾」といって海だったのが、大和川や淀川の上流から流れる土砂によって海と隔てられて湖となったものです。

海の水が閉じ込められてできた湖ですので、この時点では塩水湖でしたが、長い間川から淡水が注ぎ込まれて淡水化しました。

江戸時代初期までに「河内湖」は土砂流入でその規模は縮小、2つの「池」と周辺の湿地帯へと変貌しています。2つの池とは大東市周辺の深野池(ふこのいけ)と新開池(しんがいけ)です。

鴻池新田はこの新開池のあった場所を開発したもので、宝永二年(1705)から工事が開始されました。同じ時期にもう一つの池、深野池でも新田開発が行われ、深野南新田、河内屋新田が生まれています。

この時期河内において新田開発が盛んに行われたのは、前年、宝永元年(1704)に行われた大規模な治水工事がきっかけでした。この大工事「大和川付け替え工事」については次回で。